笑い飯の「鳥人」が革命的な漫才であった一つの理由

 今頃になって2009年のM-1グランプリを振り返ってみようと思いますが、id:ncat2さんが書かれている記事と重なる部分も多いのでそちらもご覧いただければと思います。取り上げてるネタの台詞は同じですがアプローチが違うので、ああ、こういうところがお笑いは面白いなあ、って思っていて、それと同時に、自分はちゃんと正しい道を歩いてきたんだなあ、って思ったりするんですよ。

 そんなわけで2009年のM-1で最も語るべきことは何かっていうと、明らかに笑い飯の「鳥人」であることは論を待たない。これは好みとか好き嫌いではなく、事実としてそういうことであると思う。さらに言うと語るべきはネタ中の、西田の次の台詞である。

人間の体と、鳥の頭の、ちょうど境目を見せてやろう

 実は自分は色々な事情があって、今年のM-1の東京大阪の3回戦を6日間全て観戦した。で、大阪の笑い飯のネタを見て(同じネタだった)リアルタイムでこの台詞を聞いた瞬間に、笑い飯の優勝を確信したのだった。結果はそうではなかったが、実際の話、笑い飯が決勝二本目の入りで「ほな、さっきの続きやろか」って哲夫が言ってれば笑い飯の優勝は間違っていなかったわけで、そう考えるとやはり相沢は見る目があるなあと、その辺りここで強調しておきたい。

 じゃあ、この台詞の何がすごいのか?ってところだが、id:ncat2さんはこの漫才を語る上で「前提が狂っていて、それをちゃんと狂ったものと扱いつつ、さらに狂った現象を乗せる」という表現をされているんだけど、相沢はそういう見方ではない(同じことを違う言葉で語ってるって可能性はあると思う)。相沢が「鳥人」を語るなら、こういう言い方になるだろう。「前提が狂っていて、それをちゃんと狂ったものと認識しつつも、狂った世界でのリアリティを追及する」。自分にとって「鳥人」というのはそういう漫才であり、だからこそ、革命的だった。

 その革命を確信にしたのが上記の西田の台詞であり、実際、再見すると意外なほど序盤で放たれているあの台詞があるのとないのとでは、漫才の質が変わってしまうほどの本質的なボケである。なぜか? 言ってしまえば、「鳥人が人間と鳥の境目を見せようとする(子供は見たがってないのに)」っていうボケは、「鳥人」って設定を考えた時点で自然と思いつくものだと思う。少なくとも、笑い飯ぐらいの能力の持ち主ならば。だけどそのボケを、ただ迷惑な鳥人の押しつけってところで甘えなかったところにあのボケの凄みがある。肝心なのは、「友だちの証しとして」その境目を見せようとした鳥人の動機付けを描いたってところなのだ。

 鳥人は、「友だちの証しとして」鳥と人間の境目を見せようと持ちかける。そこから何が分かるか? そこから我々が何を想像し得るだろうか? 例えば、鳥と人間の境目を見せるという行為を、鳥人が「得なこと」と認識していることが分かる。友だちにならないと、見せてあげないものなのだから。さらに、普段だったらあまりその境目を他人に見せないんだろうなということも分かる。もっと突き詰めるとおそらく鳥人は、その境目があるという点においては人間よりも上に立ってる感じっていうのはあるだろう。もしかしたら、鳥人であることで普段は人間から差別されているかもしれないが(バイトの面接で断られたりとか)、そのアイデンティティ鳥人を救ってるっていう可能性だってある。あの台詞に、ほんのわずかな想像力をはたらかせるだけで論理的に生み出される世界は、このように、豊潤だということが、「友だちの証しとして」っていう一言を加えるだけで明らかになる。だからあの漫才は、事実として、革命的なのである。

 あの台詞の何がすごいかって、突飛な設定状況に甘んじることなく、その状況におけるリアリティを追及したってところが余りに凄まじいのだ。だって、「鳥人は友だちの証しとして鳥と人の境目を見せてくれようとする」っていうのは、既に「鳥人あるある」なのだから。その「鳥人あるある」の精度が高いっていうのは西田の大喜利ポテンシャルからすると当たり前なんだけど、でもあの漫才で「鳥人あるある」をやろうとした、もしくはやると決めた、っていう、そこがすごい。オール巨人師匠は「鳥人」を評して「情景が浮かぶ」って表現をされていたけど、蛇足ながら付け加えるとしたら、「情景の浮かぶ可能性を提示した」漫才なのだ、あれは。あの漫才を見て、それぞれの「鳥人」が観た人の数だけ存在していて、そんな漫才はたぶん今までにはなかった。だから「鳥人」は革命的だったし、素晴らしい漫才だったとぼくは思うのですよ。

 この漫才はだから、今までの漫才と比べられるものではなく、むしろダウンタウンというか松本人志の「トカゲのおっさん」と比較して語られるべきものだと思う。松本人志のコントも同様に世界観からのリアリティ、世界観ならではのあるあるを追及したものがあるので、笑い飯松本人志の後継者なんだってことを、ぼくはあの漫才を見て思ったりしたのですよ。

 最後に、蛇足みたいな総括をしておきたい。今回のM-1ではぼくはちょっとだけ仕事ってことにかこつけて自分に対しての意地みたいなもので、とあるひと組の漫才師に対して全精力を注いできた。3回戦の東京大阪全て見たってのもその一環だったし、理屈で漫才を見てきて、今の自分に出来る限りのアドバイスをその漫才師(の、ネタを作ってる方)に対して僭越ながらしてみた。その漫才師は残念ながらM-1の決勝に出ることは出来なかったけど、すごく良い漫才をやったんだ、そいつらは。彼らと話していて分かったことは、漫才師って人種ってやつは、本当に、面白い漫才をやろうとしているってことだ。M-1っていうのは、売れるための過程じゃなくて、自分たちが出来る最良の漫才をやろうとする目標なのだ。単純に、彼らは面白い漫才をやろうとしている。それは本当に素晴らしいことだって俺は思う。

 M-1がどうあるべきかとか、どうあってほしいとか、採点が減点法になってるかどうかとかっていうことを語るのがそこそこ楽しい時間潰しになるっていうのはすごく理解できる。だけどやっぱり、かなりの数の漫才師がM-1に向けて、というか、日本で一番面白い漫才師って言われることを目指して努力して、M-1の問題点とか日本一の漫才コンテスとが吉本主催で行われてるってことの矛盾を知りながら、それに抗って、本当に面白い漫才を演じることに対して冗談じゃなく命を賭けてるってことを、やっぱりどこかで認識してなきゃ嘘だろ、って気持ちはある。彼らにとって、漫才は人生であり、彼らはそれを自らで決断したのだ。そんなに美しい世界を与えられてるんだから、俺らちゃんと生きなきゃ嘘でしょ?って、俺は真剣に思う。お前はどう思う? お前はどう思う?