水道橋博士論・序説 〜8月17日・東京ポッド許可局イベントに寄せて〜

 来る8月17日の土曜日、赤坂サカスでオフィス北野のイベントが行われます。ここをご参照に。色々と見所も多いわけですが、やはり何と言っても東京ポッド許可局メンバーと水道橋博士による1時間のトークは見逃せませんし(明らかに時間が短すぎるんじゃないかって不安はありますが)、ここで先着300名のお客様に配られる水道橋博士の6万字超の異常な量という年表を制作しました。その中で、水道橋博士については色々と考えたり知ったことがあったので、ここに書き記しておく次第です。

 まず始めに書いておかなければいけないこととして、水道橋博士は、いわゆる「ほんとうの自分」的なものを一切信用していないというのがあります。これはちょっと病的とも言えるほどで、自分の環境や周囲からの視線によって自らの行動を規定しているところがあまりにも多い。たとえば幼少期、学級委員に選ばれることによって、自身をそういった人間だと規定し、学級委員的な自分を、言わば演じるようになる。これはもちろん人間が社会的な存在である以上、程度の差はあれ誰でもそういう部分はあるものですが、その徹底さと、かつそれを自らが自覚しているというところが、やはりちょっと普通ではないものがある。

 そもそも水道橋博士というのは芸人になるためにビートたけしの門を叩いたわけではなく、ビートたけしのもとへ行ったら救われるかもしれない、という意識だけでそこに辿り着き、結果として芸人になってしまっている。自身も何度も語っている通り、そもそも芸人向きの資質や性格ではない、しかし芸人になった。しかもたけし軍団という、極端な芸人世界。そこで水道橋博士、というか小野正芳はどうするかというと、自らが思う、あるいは憧れる、芸人、に自分を寄せるという行動に出ます。これはかなり過剰な形で行動に表出していて、当時のビートたけしファンクラブ会報の「スウィート・ビート・クラブ」、あるいは初めての単行本となる「浅草キッドの地獄の問題集」における文章は非常に露悪的で、原則として本心は語らずに全ての場面でボケるかスカすか、つまり本心は語らず、とにかく全方位的に噛み付いている。

 この、自己を芸人として過剰に規定する、というのは今でも水道橋博士の重要な部分を形作っているわけですが(それが年齢とともに見えづらくなっている、あるいはこんな年齢の人がそんなことをするはずがないという他者からの先入観があるため、降板事件が芸人としての一つのギャグだと捉えられずに社会的な問題として非難を浴びるという面もあったりするのですが)、少なくとも1997年の免許証事件と謹慎、そして同時期に始まった博士の悪童日記などの文章を読めば明らかに分かる。そこで水道橋博士は、自己規定に迷っている。これはつまり、芸人としてのインターネット使用の前例がないからです。前例がないから、なぞることができない。当時の悪童日記は、何度もやめる宣言をしていたりして、もちろん謹慎明けという不安な状況も前提として踏まえてですが非常に興味深く、面白いです。

 水道橋博士は自己を芸人として規定するので、たとえば思春期のころは細かく達筆な文字で様々なメモを取っていますが、芸人になるとともに悪筆になっていく。これは自身も意識してやっていて、つまり、芸人はそんな達筆で長文は書かないから、という理由で書き文字を変えるという。これはやっぱり普通じゃないものがある。普通じゃないと言えば、余談になりますが、水道橋博士はブロスの年表を書くときに倉庫部屋にある過去の日記とか文章とかを、何の抵抗もなく読ませてくれる、というか本人不在の中でそれを許可するという、それも普通じゃなくて。昔に自分が書いた日記なんて、絶対誰かに読ませたくないでしょ。しかも浅草フランス座の修業時代の日記とか。ちょっとやっぱりね、そういうところもどうかしてると思うわけですが、ここの考察は自分の中でもまだ出来てないので次回に回します。

 というように、水道橋博士ビートたけしに弟子入りして以来、自己を芸人としてずっと規定している。そしてその思想は2013年現在も変わっていないにせよ、その手法に変節が訪れる時期がやって来ます。水道橋博士本人の中で、芸人、という枠組みが拡がった時期とも言えます。その時期は、2001年から2002年。雑誌「スコラ」に掲載されていた連載対談が、おそらく大きな影響を与えたのではないかと。この対談集は「濃厚民族」という単行本に収録されていますが、ここで水道橋博士は、今では絶対にあり得ない発言をしています。その対談相手は田原総一朗氏。このタイミングが、水道橋博士にとって一つの大きな変節だったと思うので、書起します。

玉袋 そう言えば、田原さんは昔、映画も撮られているんですよね。
田原 もう30年以上も前だね。桃井かおり加納典明の役者デビュー作ですよ。
博士 『あらかじめ失われた恋人たちよ』、前々から題名が素晴らしいって思ってました。見てないですけど(笑)。でも、これが当たっていれば今頃は映画監督だったですか?
田原 本当にそう思っています。……(以下略)

 これです。この「見てないですけど(笑)。」っていう発言は、現在の水道橋博士の手法からすると間違いなく出てこない。今であればまず、観ないで対談に挑むということがあり得ないでしょう、絶対に。もちろんこの「見てないですけど(笑)。」発言のときに実は観てたって可能性も捨てきれない、つまりあえて露悪的というか知らない自分を演じているという可能性もありますが、そのやり方も今ならしないはずです。その話を掘り下げて出てくる話のほうがおいしいに決まってるわけで。だからこの「見てないですけど(笑)。」という発言は、編集者が捏造していない限りは、明らかに変節前の水道橋博士の発言なわけです。今とはあまりにも違いすぎている。

 それでは何が水道橋博士を変節に至らしめたのか? というと、これはおそらくは、というかほぼ間違いなく、同じく「濃厚民族」に対談が収録されている、故・百瀬博教氏の存在でしょう。1999年の10月4日、「ビートニクラジオ」での共演で初対面し、個人的に興味を持つも直接の交流がすぐにあったわけではなく、(2001年の6月14日に前述した田原総一朗氏との対談を挟んで)、そして2002年の1月17日に「スコラ」連載で百瀬氏と再会。対談後に自宅に招かれた水道橋博士は、百瀬氏の6年間の獄中ノートを読み、感銘を受け、以降何年にもわたって濃密な交流を続けることになります。

 百瀬博教氏の「思い出に節度がない」そのやり方が、芸人になる以前の自身の行動原理と重なったであろう水道橋博士は、ここでおそらくは致命的に影響を受け、自らが規定する、芸人、という枠組みを拡げたのではないでしょうか。こういうやり方もあるんだ、あって良いんだ、と気付いたんじゃないか。それは自己否定でもあり、同時に自己肯定でもあったのでしょう。芸人としての二度目の誕生と言えるかもしれません。そしてそれが「藝人春秋」や「水道橋博士のメルマ旬報」の実践に繋がり、あるいは「たかじん NO マネー」で試みた、社会に直接笑いでアプローチするという手法に繋がり(そこにはサシャ・バロン・コーエンの影響もあるわけですが)、そしてそれはまた今後の水道橋博士の活動にも繋がっていくのではないか…というのが、ぼくの見立てです。もし、全然違ってたら? そんときは、あれだよ、笑われれば良いよ。

 最後に、年表には書けなかったというか書かなかった水道橋博士の言葉で、水道橋博士の年表を表すものがあるので、それを書起して終わります。単行本「水道橋博士異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて風俗とAVを愛するようになったか。」から。「北の国から '95 秘密」で、清掃局で働く純の恋人(宮沢りえ)が元々AV女優だったことに対して五郎が語った「石けんで落ちない汚れってのもある」という台詞に対して、若き日の水道橋博士は強い嫌悪感を覚えて、こう書きます。

 過去が消せる消しゴムなんてあるか! ないからこそ、ふり返ることなく、恥じることなく、くじけず生きてんだろうに。

 
 過去は消せない。だからこそ、我々は今を生きる。今の水道橋博士の言葉はすごく面白いはずなので、8月17日土曜日の赤坂サカス、オフィス北野のイベント、お時間とご興味のある方はお越しいただければ良いのではないかと思います。