「みっつ数えろ」第三戦解説 〜プロレスをずっと追いかけられるのは何故なのか〜

 本日2013年9月10日、有料メールマガジン水道橋博士のメルマ旬報」にて拙作「みっつ数えろ」の連載第三戦が配信されました。みなさまお読みいただけましたでしょうか。今回はみやびの自宅にあゆみと瞳がお邪魔して、色んなことが起きる回。みやびママがすごい良い感じの人物なので、助かりました。というかまあ、このお話には、今後も良い感じの人物しか出て来ないような気もしますが。

 さてここからは、本日配信の「みっつ数えろ」を読んでいないとまるっきり意味が分からないエントリになりますので、ご購読はこちらのページからお願いします。「みっつ数えろ」とはざっくり言うと「女子高生がプロレス部を設立しようとするが、危険すぎるという理由で学校から却下され、その代わりに演劇部を設立して演劇だと言い張りながらプロレスを行う」というお話のマンガ原作です。プロレスを知らない人でも楽しめるようなわりと真っすぐな青春ストーリーとして書いてるつもりですが、そうでもなかったら申し訳ございませんということで、何卒。

 で、今回の話を書くときに一番迷ったのは、みやびパパの描写をどうするか、ってところだったりしました。そもそも「みっつ数えろ」は2年前に自分で書いたものをベースにしていて、当時もみやびパパは元プロレスラーでケガをして車椅子に乗ってるって設定だったりしたのですが、改めて書くうえで、この設定はやっぱり重すぎないか?ってのはあって。そこに対する拒否反応は、書くほうとしても、いちばん最初の読者としても、やっぱりすごくあったりするわけです。

 ぼくが「みっつ数えろ」を書くうえで一番大切にしていることは、プロレスを全く知らない人が「プロレスってかっこいいな!」「プロレスラーってかっこいいしかわいいな!」って思ってもらえることを第一に置いています。そのうえで「プロレスラーがケガをする」って、やっぱり、描くことはすごく難しい。事実としてそれがあるのは知ってるけど、でも、それを伝えることには抵抗があって。少なくとも、もうちょっと先で良いんじゃないかって判断も、自分の中で選択肢としてはありました。

 ここは本当に自分の中でも何度もありかなしかを考えていたのですが、でも、2013年、ある出来事が起こりました。それは、星川尚浩選手の、デビュー20周年記念セレモニー。試合中に大けがを負った星川選手は、今でもリハビリを続けているのですが、彼はリングに自分の足で上がり、丸藤選手から3カウントを奪いました。それは、事実として、後楽園ホールに集まった大勢の観客の前で行われたのでした。

 正直なところを言うと「みっつ数えろ」は、少なくともプロレスにおいて、新しいことを描こうというつもりは一切ありません。プロレスから貰ったものを、正しく描くことだけを目的としている作品です。であるならば、起こったことは描けるはずだし、描いたほうが良いんじゃないかと。だってそれは、本当に起こっている出来事なんだから。過剰に感動を乗せるつもりはないし、むしろそこは薄める方向で描きたいけど、でも事実は描きたい。あのセレモニーで、全員が笑顔だったあの瞬間は、やっぱり描きたかったりするのですよそれは。泣けるから、じゃない。その景色が、とても素敵だったのだから。

 というような経緯を踏まえて、みやびパパは現在もリハビリ中のプロレスラーです。ハヤブサ選手と星川選手がいるから、みやびパパは今でもリハビリを続けています。そして、絶対にへこたれることはないのでしょう。だって、プロレスラーなんだから。あゆみは言います。ただのプロレスファンとして、何の責任もない言葉だけど、その言葉はやっぱり真実なんだと、ぼくはただのプロレスファンとしてそう思います。

「みんな、生きてればさ、間違うことも沢山あるけど。でも、それを正しく直してくれるのが、プロレスなんだよ!」

 プロレスは、ただのスポーツじゃない。ただの娯楽じゃない。道しるべなのです。だからぼくは今でもずっと、プロレスを見続けている。そんなジャンルは、ほかにはちょっと、そんなに多くはないんじゃないかって思ったりもするのです。

 それではまた次回。まだ「水道橋博士のメルマ旬報」読んでおられない方で興味もっていただいたなら、ご購読はどうぞこちらのページから。以上、「みっつ数えろ」第三戦の、お粗末ながら解説でした。エレガントに、さよなら。
 

「みっつ数えろ」第二・五戦解説 〜ジェントルメン中村「プロレスメン」とは何か?(前編)〜

 本日2013年8月25日、有料メールマガジン水道橋博士のメルマ旬報」にて拙作「みっつ数えろ」の連載第二・五回が配信されました。みなさまお読みいただけましたでしょうか。マンガ原作ということもあるので今回は前回までとは趣向を変えて、要は単行本になったときのおまけページ的な意味合いで、喫茶店トークをしてもらいました。ストーリーの主軸のあいだにちょこちょこ挟み込んでいきますので、今後もご愛顧のほどを、ということで。

 さてここからは、本日配信の「みっつ数えろ」を読んでいないとまるっきり意味が分からないエントリになりますので、ご購読はこちらのページからお願いします。「みっつ数えろ」とはざっくり言うと「女子高生がプロレス部を設立しようとするが、危険すぎるという理由で学校から却下され、その代わりに演劇部を設立して演劇だと言い張りながらプロレスを行う」というお話のマンガ原作です。プロレスを知らない人でも楽しめるようなわりと真っすぐな青春ストーリーとして書いてるつもりですが、そうでもなかったら申し訳ございませんということで、何卒。

 というわけで今回は、作中でも日々野瞳が読んで影響を受けた、ジェントルメン中村「プロレスメン」という超名作マンガについての解説です。

 その前にまずおさえておかなければいけない歴史的事実として、2001年の12月、プロレス界に大きな影響を与える一冊の本の出版について書いておかなくてはいけません。ミスター高橋という新日本プロレスの元レフェリーが書いた「流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである」という本について。この内容というのは、まあ書名からも分かる通り、プロレスがショーであり、真剣勝負である以前に見せ物であり、そこにはプロの技術が沢山含まれているんだよ、という、ざっくり言えばそういったことが書かれているわけです。

 この本はミスター高橋によれば、そういった事情を全て開示したうえでプロレスは楽しまれたほうが良いという思想から(本音か建前かは別として)書かれているのですが、プロレス界とプロレスファンに大きな影響を与えることになりました。もちろん「プロレスなんて八百長でしょ?」なんてことはプロレスファンなら何度も言われているわけですし、タダシ☆タナカのシュート活字や佐山聡の「ケーフェイ」といったような前例もある、しかしこのミスター高橋本は実際に団体で、しかも新日本プロレスというメジャー中のメジャーで仕事をしていた人間が書いたということもあって、かつ当時は総合格闘技というジャンルが既に存在していたということもあって、この本をもってプロレスから離れてしまった人も数多くいるというのは事実としてあります。ぼくはこの本や、この本に書かれたことの一切を認めないという立場をこれまでもこれからもずっと取り続けるはずですが、大きな影響を与えたというのは事実として存在しているわけです。

 そしてプロレスとは、ひとつの大きな歴史的な書物です。そこに登場する人物は、過去の上に立ち、未来を見据えて動く、いわば必然として置かれるコマのようなものです。だからこのミスター高橋本以降のプロレス創作物というのは、これありきで進んでいくわけです。その立場を認めるか認めないかは別として、このミスター高橋本を無視してプロレスを描くことは、たとえフィクションだったとしても出来ない、それがプロレスにおけるルールでありモラルだったりするのです。

 かくして表現物におけるプロレスは様変わりしました。かつて、小林まこと「1・2の三四郎」という普及の、今読んでも心が震えてたまらなくなるプロレスマンガがあるわけですが、そこでは当然ショーだとか結末がどうとか、そういうことは描かれていない。そりゃ、ファンだからその辺の不思議なことに対しては個々で考えるし、そのうえで自分なりの回答を見つけるっていうのがプロレスの楽しみなわけですからそれはそれとしてある。しかし、ショーである前に真剣勝負である、っていう描かれ方が、当たり前だったわけです、その当時は。だって、そう描いたほうが面白いしね、実際。当たり前だけど。

 しかしミスター高橋本が出版されてから、プロレスの描かれ方は変わっていきます。プロレスはショーである。その前提がある。そこでプロレスをどう描くか? 総合格闘技よりもプロレスが勝っているところはどこか? そこで新たに、プロレスはショーでありそのショーを生身の人間が肉体を使ってやっていることが素晴らしいのだ、といった一連のマンガが生まれていきます。先述したミスター高橋が原作をやった「太陽のドロップキックと月のスープレックス」、「任侠姫レイラ」、「肉の唄」など。それは必然として、っていうのはプロレスっていうのが関わる人すべてが書き手となって紡ぎ続けるジャンルであるからこそ、必然としてそういった作品群が生まれてくるのです。

 しかし。それで良いのか? その考え方って、なんかちょっと、最初から負けてねえか? 少なくともぼくは当時、すごく思っていました。確かに高田はヒクソンに負けた。でもアレクはマルコ・ファスに勝ったじゃないか。ショーだからすごい? そう思う瞬間も確かにある。でもプロレスの凄さって、そこだけじゃないんじゃないのか? ショーだとか、結末がどうとか、そんなことって言っちゃえばどうだって良いんじゃないのか?

 ジェントルメン中村「プロレスメン」はそういった歴史的事実を踏まえて、2011年に描かれた真っ正直なプロレスマンガです。そして相沢直「みっつ数えろ」も、そういった作品群を追いかけて書かれていくわけですが、もうね、長い! 長いよ文章が! というわけで、次回の更新に続きます。プロレスのこと考えると時間の流れが早くて仕方ないよ!

 それではまた次回。まだ「水道橋博士のメルマ旬報」読んでおられない方で興味もっていただいたなら、ご購読はどうぞこちらのページから。以上、「みっつ数えろ」第二・五戦の、お粗末ながら解説でした。エレガントに、さよなら。
 

水道橋博士論・序説 〜8月17日・東京ポッド許可局イベントに寄せて〜

 来る8月17日の土曜日、赤坂サカスでオフィス北野のイベントが行われます。ここをご参照に。色々と見所も多いわけですが、やはり何と言っても東京ポッド許可局メンバーと水道橋博士による1時間のトークは見逃せませんし(明らかに時間が短すぎるんじゃないかって不安はありますが)、ここで先着300名のお客様に配られる水道橋博士の6万字超の異常な量という年表を制作しました。その中で、水道橋博士については色々と考えたり知ったことがあったので、ここに書き記しておく次第です。

 まず始めに書いておかなければいけないこととして、水道橋博士は、いわゆる「ほんとうの自分」的なものを一切信用していないというのがあります。これはちょっと病的とも言えるほどで、自分の環境や周囲からの視線によって自らの行動を規定しているところがあまりにも多い。たとえば幼少期、学級委員に選ばれることによって、自身をそういった人間だと規定し、学級委員的な自分を、言わば演じるようになる。これはもちろん人間が社会的な存在である以上、程度の差はあれ誰でもそういう部分はあるものですが、その徹底さと、かつそれを自らが自覚しているというところが、やはりちょっと普通ではないものがある。

 そもそも水道橋博士というのは芸人になるためにビートたけしの門を叩いたわけではなく、ビートたけしのもとへ行ったら救われるかもしれない、という意識だけでそこに辿り着き、結果として芸人になってしまっている。自身も何度も語っている通り、そもそも芸人向きの資質や性格ではない、しかし芸人になった。しかもたけし軍団という、極端な芸人世界。そこで水道橋博士、というか小野正芳はどうするかというと、自らが思う、あるいは憧れる、芸人、に自分を寄せるという行動に出ます。これはかなり過剰な形で行動に表出していて、当時のビートたけしファンクラブ会報の「スウィート・ビート・クラブ」、あるいは初めての単行本となる「浅草キッドの地獄の問題集」における文章は非常に露悪的で、原則として本心は語らずに全ての場面でボケるかスカすか、つまり本心は語らず、とにかく全方位的に噛み付いている。

 この、自己を芸人として過剰に規定する、というのは今でも水道橋博士の重要な部分を形作っているわけですが(それが年齢とともに見えづらくなっている、あるいはこんな年齢の人がそんなことをするはずがないという他者からの先入観があるため、降板事件が芸人としての一つのギャグだと捉えられずに社会的な問題として非難を浴びるという面もあったりするのですが)、少なくとも1997年の免許証事件と謹慎、そして同時期に始まった博士の悪童日記などの文章を読めば明らかに分かる。そこで水道橋博士は、自己規定に迷っている。これはつまり、芸人としてのインターネット使用の前例がないからです。前例がないから、なぞることができない。当時の悪童日記は、何度もやめる宣言をしていたりして、もちろん謹慎明けという不安な状況も前提として踏まえてですが非常に興味深く、面白いです。

 水道橋博士は自己を芸人として規定するので、たとえば思春期のころは細かく達筆な文字で様々なメモを取っていますが、芸人になるとともに悪筆になっていく。これは自身も意識してやっていて、つまり、芸人はそんな達筆で長文は書かないから、という理由で書き文字を変えるという。これはやっぱり普通じゃないものがある。普通じゃないと言えば、余談になりますが、水道橋博士はブロスの年表を書くときに倉庫部屋にある過去の日記とか文章とかを、何の抵抗もなく読ませてくれる、というか本人不在の中でそれを許可するという、それも普通じゃなくて。昔に自分が書いた日記なんて、絶対誰かに読ませたくないでしょ。しかも浅草フランス座の修業時代の日記とか。ちょっとやっぱりね、そういうところもどうかしてると思うわけですが、ここの考察は自分の中でもまだ出来てないので次回に回します。

 というように、水道橋博士ビートたけしに弟子入りして以来、自己を芸人としてずっと規定している。そしてその思想は2013年現在も変わっていないにせよ、その手法に変節が訪れる時期がやって来ます。水道橋博士本人の中で、芸人、という枠組みが拡がった時期とも言えます。その時期は、2001年から2002年。雑誌「スコラ」に掲載されていた連載対談が、おそらく大きな影響を与えたのではないかと。この対談集は「濃厚民族」という単行本に収録されていますが、ここで水道橋博士は、今では絶対にあり得ない発言をしています。その対談相手は田原総一朗氏。このタイミングが、水道橋博士にとって一つの大きな変節だったと思うので、書起します。

玉袋 そう言えば、田原さんは昔、映画も撮られているんですよね。
田原 もう30年以上も前だね。桃井かおり加納典明の役者デビュー作ですよ。
博士 『あらかじめ失われた恋人たちよ』、前々から題名が素晴らしいって思ってました。見てないですけど(笑)。でも、これが当たっていれば今頃は映画監督だったですか?
田原 本当にそう思っています。……(以下略)

 これです。この「見てないですけど(笑)。」っていう発言は、現在の水道橋博士の手法からすると間違いなく出てこない。今であればまず、観ないで対談に挑むということがあり得ないでしょう、絶対に。もちろんこの「見てないですけど(笑)。」発言のときに実は観てたって可能性も捨てきれない、つまりあえて露悪的というか知らない自分を演じているという可能性もありますが、そのやり方も今ならしないはずです。その話を掘り下げて出てくる話のほうがおいしいに決まってるわけで。だからこの「見てないですけど(笑)。」という発言は、編集者が捏造していない限りは、明らかに変節前の水道橋博士の発言なわけです。今とはあまりにも違いすぎている。

 それでは何が水道橋博士を変節に至らしめたのか? というと、これはおそらくは、というかほぼ間違いなく、同じく「濃厚民族」に対談が収録されている、故・百瀬博教氏の存在でしょう。1999年の10月4日、「ビートニクラジオ」での共演で初対面し、個人的に興味を持つも直接の交流がすぐにあったわけではなく、(2001年の6月14日に前述した田原総一朗氏との対談を挟んで)、そして2002年の1月17日に「スコラ」連載で百瀬氏と再会。対談後に自宅に招かれた水道橋博士は、百瀬氏の6年間の獄中ノートを読み、感銘を受け、以降何年にもわたって濃密な交流を続けることになります。

 百瀬博教氏の「思い出に節度がない」そのやり方が、芸人になる以前の自身の行動原理と重なったであろう水道橋博士は、ここでおそらくは致命的に影響を受け、自らが規定する、芸人、という枠組みを拡げたのではないでしょうか。こういうやり方もあるんだ、あって良いんだ、と気付いたんじゃないか。それは自己否定でもあり、同時に自己肯定でもあったのでしょう。芸人としての二度目の誕生と言えるかもしれません。そしてそれが「藝人春秋」や「水道橋博士のメルマ旬報」の実践に繋がり、あるいは「たかじん NO マネー」で試みた、社会に直接笑いでアプローチするという手法に繋がり(そこにはサシャ・バロン・コーエンの影響もあるわけですが)、そしてそれはまた今後の水道橋博士の活動にも繋がっていくのではないか…というのが、ぼくの見立てです。もし、全然違ってたら? そんときは、あれだよ、笑われれば良いよ。

 最後に、年表には書けなかったというか書かなかった水道橋博士の言葉で、水道橋博士の年表を表すものがあるので、それを書起して終わります。単行本「水道橋博士異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて風俗とAVを愛するようになったか。」から。「北の国から '95 秘密」で、清掃局で働く純の恋人(宮沢りえ)が元々AV女優だったことに対して五郎が語った「石けんで落ちない汚れってのもある」という台詞に対して、若き日の水道橋博士は強い嫌悪感を覚えて、こう書きます。

 過去が消せる消しゴムなんてあるか! ないからこそ、ふり返ることなく、恥じることなく、くじけず生きてんだろうに。

 
 過去は消せない。だからこそ、我々は今を生きる。今の水道橋博士の言葉はすごく面白いはずなので、8月17日土曜日の赤坂サカス、オフィス北野のイベント、お時間とご興味のある方はお越しいただければ良いのではないかと思います。

「みっつ数えろ」第二戦・解説 〜プロレス用語解説シリーズ〜

 本日2013年8月10日、有料メールマガジン水道橋博士のメルマ旬報」にて拙作「みっつ数えろ」の連載第二回が配信されました。みなさまお読みいただけましたでしょうか。2年半前に自分が書いたものをちょこちょこリライトしたのが今回までの連載なのですが、正直ぐっと来ちゃいましたよ、恥ずかし気もなく。いや本当、この先の展開も楽しみですよね、ってまあこれで見事にストックを使い切ってるっていう非常に恐ろしい現実はさて置いてますけどもね。ここからどういう話になるのか、書いてる当人がまったく分かっていないという。とは言えまあ、人生とかプロレスとかって大体そういうものなので、どうにかなるんじゃないでしょうかおそらくは。どうにもならなかったら、そのときはそのときということで。

 さて、そんなわけで本日は「みっつ数えろ」第一戦と第二戦で出てきたいわゆるプロレス用語について解説してみます。本日配信の「みっつ数えろ」を読んでいないとまるっきり意味が分からないエントリになりますので、ご購読はこちらのページからお願いします。「みっつ数えろ」とはざっくり言うと「女子高生がプロレス部を設立しようとするが、危険すぎるという理由で学校から却下され、その代わりに演劇部を設立して演劇だと言い張りながらプロレスを行う」というお話のマンガ原作です。プロレスを知らない人でも楽しめるようなわりと真っすぐな青春ストーリーとして書いてるつもりですが、そうでもなかったら申し訳ございませんということで、何卒。

 以下、第一戦と第二戦で出てきたプロレス用語についての解説です。「みっつ数えろ」は、プロレスを知らない人がプロレスに興味を持ってくれたら良いなあというのを一番の目的として書いていますので、そういう方に向けて。もちろん知ってても知らなくても社会生活を送る上で何の支障もない情報なわけですが、知識は荷物になりませんということで、お耳汚しさせてください。プロレスを好きな方には言わずもがななところもありますが、まあまあ、それはそれということで。

 それでは。

 第一戦:「迷わず行けよ 行けば分かるさ」
 暁星あゆみが自ら書いている「暁星あゆみ自伝」の1ページに書かれているこのフレーズは、言わずと知れた「燃える闘魂」こと現・参議院議員アントニオ猪木が現役引退試合(1998年4月4日)のスピーチで遺した言葉。あゆみはアントニオ猪木を崇拝するあまり、アントニオ猪木と同じように「自伝」を自ら書いているという設定。ちなみに小林まこと「1・2の三四郎」の主人公である東三四郎も作中であゆみ同様、自らの手で「自伝」を書いており、アントニオ猪木信者は全員「自伝」を書いているであろうことが伺えます。

 第一戦:「海賊男」
 神社で瞳を見つけたあゆみは、瞳のことを「乱入」してきたものだと早合点し、「海賊男めぇ〜」と発言。この「海賊男」というのは1987年に新日本プロレスに登場した謎の覆面レスラーのこと。大阪大会、メインのアントニオ猪木マサ斉藤戦に乱入し、マサ斉藤に手錠をかけて連れ去るも、そのあまりの意味不明っぷりに観客による暴動が勃発。黒歴史を残すとともに、忘れようにも忘れられないほどのインパクトを与えた「乱入」の代名詞的存在。動画サイトに上がっている当時の映像を観ると、本当にわけが分からなすぎてわりと吃驚します。

 第一戦:「リングアウトしないための練習」
 プロレスの試合における勝敗の付け方は、ピンフォール、ギブアップ、ノックアウトなどいくつか存在するが、リングアウトというのもその中のひとつ。リングの外に落ちた選手が決められたカウントでリング内に戻ってこないと負けが宣告されるというルールのこと。両方の選手がリングに戻ってこれないときは、両リン(両者リングアウト、の略)と呼ばれ、その試合の勝敗はつかない。リングアウトで勝敗が決まるカウントは、全日本プロレスが10カウント、そのほかの多くの団体は20カウント。「みっつ数えろ」では、本編でも描かれているように、20カウント方式を取り入れている。
 リングアウト決着、特に両リンは不透明決着というイメージが強いので、あゆみはそうならないための練習をしているという意味合い。基本的には脚力を鍛えるトレーニングで、やり方としては「すごい離れたところでうつぶせになって、カウントテンで起き上がって神社のリングに走って戻ってくる」というわりとアバウトなスタイルを採用。発案者はあゆみで、当初は「まず失神するところから始める」というハードコアなものを考えていたが、みやびの反対により現状の形に。

 第一戦:「はぐれ国際軍団時代のラッシャー木村
 ラッシャー木村とは、大相撲を廃業後、日本プロレスから東京プロレス国際プロレスなど、数々の団体を渡り歩いたプロレスラー(故人)のこと。国際プロレス解散後、残党とともに悪役ユニット「はぐれ国際軍団」として新日本プロレスに参戦し、試合のみならずその生き様を含めて「プロレス」の何たるかをファンに伝える。その後は第一次UWF参戦を経て、全日本プロレスに参戦。明るく楽しいプロレスを繰り広げた。マイクパフォーマンスの「こんばんは、ラッシャー木村です」という一言も有名で、これはたぶんいつかネタに使いそうな気がします。何となく。

 第二戦:「ミスター・ウォーリーのコスプレ」
 ミスター・ウォーリーというのはアントニオ猪木が現役引退後(独自の団体であるUFOを設立、運営していた時代。1998年7月ごろ)に一瞬だけ、というかおそらく一度だけ名乗った、謎のコスプレキャラクターのこと。テンガロンハットにサングラス、付け髭というコスプレをして空港で待ち構える記者の前に現れたものの、そのアゴの長さと体つきは明らかにアントニオ猪木その人でしかなかったため、プロレスマスコミとプロレスファンはどう対応すべきか非常に困惑した。あゆみは年齢的に当然リアルタイムで経験しているわけではありませんが、当時の「週刊ファイト」は中学生時代に後追いで全号読破しているので、ミスター・ウォーリーの存在は知っているという設定。

 第二戦:「新生・全日本の諏訪魔選手がラストライド決めたあと式の体固め」
 この回の「みっつ数えろ」ではオーソドックスなピンフォールの技として「片エビ固め」を採用しているが、ピンフォールに至るまでの必殺技によっては「片エビ固め」に移行しない場合ももちろん多々ある。その一例として、諏訪魔選手がラストライドという必殺技を決めたあとは、相手に覆いかぶさって堂々とレフェリーのスリーカウントを聞く。あれはもう、絶対に返せない。ブルース・リーが敵を踏みつけたあとのようなどこか哀しい表情を浮かべる、その色気が凄まじいので未見の方は是非とも会場に足を運ぶべきだと思います。


 プロレスファンの方が読まれると「その解説違うわ!」ってなりそうな気がして戦々恐々なのですが、ざっくりこんな感じです。そんなに難しいこともないですし、「みっつ数えろ」はこの辺の細かいところは知らなきゃ知らないでそれはそれというか、ああなんかこれは何かしらのプロレス用語なのね?ぐらいで読み進めるようには書いておりますので、まあまあまあ、適当な湯加減で適度に読み進めていただければと思っております。知ったら知ったで面白いので、それはそれで、ということで。

「みっつ数えろ」、まだ「水道橋博士のメルマ旬報」読んでない方で興味もっていただいたなら、ご購読はどうぞこちらのページから。以上、「みっつ数えろ」第二戦の、お粗末ながら解説でした。また次回!

「みっつ数えろ」第一戦・解説 〜「マッスル」と「メロン記念日」とは何か?〜

 唐突ながら本日、2013年7月25日より、有料メールマガジン水道橋博士のメルマ旬報」にてわたくし相沢直の「みっつ数えろ」という連載がスタートしました。この連載はスタイルとしてはマンガ原作のシナリオという形になるのですが、一言で内容をお伝えすると「女子高生がプロレス部を設立しようとするが、危険すぎるという理由で学校から却下され、その代わりに演劇部を設立して演劇だと言い張りながらプロレスを行う」というものです。まだ連載二回ぶんまでしか書いていないのですが、ちょっと面白いものになっているのではと自分では思っておりますので、是非お読みいただけるとありがたいです。わりと真っすぐな青春ものなので、プロレス知らない方でも大丈夫…なはず。たぶん。そんなことなかったらごめんなさいなのですが。

 ご存知ない方のために説明しておきますと、「水道橋博士のメルマ旬報」というのは月額500円で月に2度配信されるメールマガジンなのですが、その分量があまりにも多すぎるため半月で読み終わるかも定かではないという代物でして、連載陣も水道橋博士本人をはじめとして西寺郷太さんや樋口毅宏さんや山口隆さん(サンボマスター)や東京ポッド許可局の皆さんや、などと挙げていったらきりがありません。てれびのスキマさんも連載されております。一度登録してしまえばもちろん毎回送られてきまして、ぼくの連載はともかくとして明らかに値段以上の価値はありますというか完全にありすぎるので、自信をもってお薦めします。こちらのページから、ご購読をお申し込みいただければと。

 …ということで、このブログでは、「みっつ数えろ」の連載と並行してその回のもろもろの解説やら意味合い的なものなどをやっていこうと思います。何のために?っていうとこれはもう明白でございまして、そういうような手でも使っていかないとですね、ほかの連載陣の皆さまに対して勝ち目がないからです。明らかに全連載陣のなかで自分だけが突出して無名であり、しかもその内容が創作ですよ。誰なんだお前、って話ですよ本当に。普通に闘ったら秒殺じゃないですか。じゃあどうするか。普通に闘って勝ち目のない相手に対しては、普通じゃない手を使う、ってのはプロレスの鉄則です。なのでまあ、このブログを使いながら、ちょっとでも「みっつ数えろ」を面白く見せよう、というそういった魂胆です。例えて言うなら「みっつ数えろ」本編がプロレスの興行や試合だとするなら、このブログはプロレス専門誌(紙)というような。併せて読んでいただけると楽しめるように出来ればと思っております。

 ですので以下の文章は、「みっつ数えろ」の第一回を読んでいないとまったく意味が分からないものになります。あくまでも本編の解説なので。というわけでしつこいようですが、「水道橋博士のメルマ旬報」、こちらのページよりご購読ください。「みっつ数えろ」の連載を読んだあとで、以下の文章をお読みいただくと良いのではないかと、このように思っております。というか本当にですね、人助けだと思って何卒宜しくお願いします。良い感じのツイートとかしても、いいんだよ…?

 では7月25日配信、「みっつ数えろ」第一戦の解説です。

 そもそもこの「みっつ数えろ」というお話を書くにあたっては、ぼくの中で強烈に意識している、あるいはそのままなぞっている、二つの偉大な先人がいます。それが今回、連載の序文でも名前を挙げていますが、「マッスル」というプロレス団体と、「メロン記念日」というアイドルグループです。ぼくはこの二つから人生をかけても返しきれないほど多くのものを貰っており、そこに恩返しをすること、あるいは語り継ぐということをやらなければいけないと常々思っていて、それが「みっつ数えろ」という形になっています。

 「マッスル」と「メロン記念日」には数多くの共通点があるのですが、そのなかでも、大きな符号がみっつあります。一つ目は、ともに2010年に活動を停止(休止)していること。二つ目は、いつか日本武道館公演を行うと宣言しながらも、その夢が叶わなかったこと。そして三つ目が、これがすごく重要なところなのですが、才能や運ではなく、人間の努力と執念と業によって数々の奇跡を生み出したこと。ぼくはそれを、客席から観ていました。心と体を震わせ、そして思ったわけです。人間ってすげえ!と。その衝撃は、今もなお心に焼き付いています。あの体験は、ちょっとほかにはないものだと心からそう言えますし、その後のぼくの人生は、「マッスル」と「メロン記念日」のために存在していると言っても、まったくもって過言ではありません。

 「マッスル」も「メロン記念日」も、そのジャンルのど真ん中の存在ではありませんでした。「マッスル」はその手法の鮮烈な独自さによってプロレスの鬼っ子であるという見方をされ続けましたし、「メロン記念日」はその活路を見いだすためにアイドルというよりはむしろ楽器を持たないロックグループという前人未到の獣道を歩き続けました。しかしそれ故に「マッスル」と「メロン記念日」はそのジャンルの本質を浮き彫りにし、あるいはそれを想起させ、そしてひとつのメッセージを伝えていました。そのメッセージを言葉にするなら、たぶんこうなります。つまり、ひとりであることを恐れるな、と。

 いままで誰も歩いたことのない道を歩くということ、あるいはその道自体を造るということ。そういった行為を好き嫌いや向き不向きで選ぶのではなく、仕方ないこととして、覚悟とともに受け入れるということ。その道は険しいかもしれない、そしてその道を笑いながら歩けるほどの、天賦や度量もないかもしれない。それでもそこに自分の歩くべき道があるなら、歩き出すしかない。その無謀な挑戦に、まさにぼくの目の前で身を投じていたのが「マッスル」と「メロン記念日」でした。そしてその二つは、今もってなお、ぼくの中であまりに特別な存在であり続けています。2010年の活動停止(休止)から3年が経った今でもずっと、ぼくは「マッスル」と「メロン記念日」から、大切なものを貰い続けているのです。一切の誇張や冗談抜きで。

 そして「みっつ数えろ」連載第一回の序文にも書いた通り、貰ったものは「ちゃんと返さなくてはいけない」。これは本当にそうなんです。だからずっと、それについて考え、それを出来る限り実践し、それを語り継いでいかなくてはいけない。それがルールだし、それがマナーだと。そうじゃないのなら、一体何を信じれば良いのか?と。

 だから自分なりの、自分だけのやり方で、返していく。「みっつ数えろ」というタイトルや、登場人物が通う学校の名前が「(私立)宮前女子高等学校」なのは、ともにMから始まる「マッスル」と「メロン記念日」に、ぼくが今でも憧れているからです。物語の設定やプロレスに対するアプローチの手法は、「マッスル」に対しての自分なりの宿題ですし、主要登場人物の4名、暁星(あけぼし)あゆみ、白百合みやび、日々野瞳、源五郎丸めぐみは、その下の名前を「メロン記念日」の4人からそのまま借りています。好きだからそうしてるんじゃなくて、そうなっていないといけないから、そうなっている。

 そしてぼくの中では「みっつ数えろ」にはこんなサブタイトルがついています。〜私立宮前女子高等学校演劇部が如何にして日本武道館におけるプロレス興行を成功させたか〜。「マッスル」と「メロン記念日」がともに果たせなかった日本武道館公演という夢は誰かが引き継がないといけないとぼくは勝手にそう思っていて、その夢を「みっつ数えろ」の4人の女の子に託しています。その日は果たしていつやって来るのか? いまのところ見当もつきません。しかしその日が必ずやって来るということだけは決まっています。ですのでどうぞ末永く、「みっつ数えろ」とあの4人の女の子の姿を見守ってやっていただけると嬉しいです。

 …いや本当、こうやって文字にしてみると我ながら、完全に厄介すぎているってのがよく分かります。さすがにちょっとどうかと思う。でも言わせてもらえば、ぼくをこんな風にしたのが「マッスル」と「メロン記念日」なんだから仕方がない。精一杯の愛と敬意を。ぼくはいつでも、あなたたちのぼくです。
 
 ってまあ、いまの最後の一文は、いとうせいこう監訳「マルクス・ラジオ」からの引用なんですけどねってそんなことやり続けてたら延々終わらねえじゃねえか! いい加減にします。すみません。次回はこんなに長くならずに、第一回&次回8月10日に配信される第二回に出てくる、プロレス用語について簡単に解説する予定です。と、最後の最後になりますが、「みっつ数えろ」も連載されております「水道橋博士のメルマ旬報」、こちらのページからご購読申し込めますよ! というわけで皆さま今後とも、何卒宜しくお願いします。

テレビブロス「どうした!?水道橋博士」特集が出来るまで 〜あるいは、おぐらりゅうじと相沢直と「テレバイダー」の星座について〜

「今度、テレビブロス水道橋博士の特集やりたいんだよね。どう思う、相沢氏?」

 おぐらりゅうじがこう言ったのは、2013年5月7日の夜だった。7月17日発売号のテレビブロス(表紙はきゃりーぱみゅぱみゅ)に「どうした!?水道橋博士」特集が掲載される、2ヶ月ちょっと前の話だ。おぐらりゅうじからのその提案を聞いたとき、ぼくはもう既に大分酔っていたので、そうだねえ、と考えるふりをしながらも、そんなことよりこいつ俺のこと、相沢氏、って呼ぶよなあ、ということを思っていた。でもその感覚は、分からないでもない。お互い昭和55年生まれの同い年で、さん付けは堅苦しいし、くん付けもどこか抵抗がある。呼び捨てなんてなおさらできない。まあ、それで選んだ答えが相沢氏、っていうのがどうなのかっていうのはさて置くとして、こういうところで人間は出る。たぶん。で、ぼくは、そういうおぐらりゅうじのことが、決して嫌いではないのだった。

 そもそもおぐらりゅうじと知り合ったのは、TBSテレビ「テベ・コンヒーロ」で2012年5月29日に放送された「コウメ太夫で笑ったら即芸人引退スペシャル」がきっかけだった。ぼくはこの放送をリアルタイムで観ながら、笑うとか笑わないとかいう以前に震えてしまい、こんな凄いものが無造作にお茶の間に届けられてしまうというテレビのアナーキーさに改めて心から痺れた。このときにツイートした「TBSバラエティの狂気が『未来ナース』から受け継がれていた」という発言は水道橋博士本人からリプライを受けるのだが、それはさておき、このときのぼくの一連のツイートを後から読んだのが、テレビブロス編集部に籍を置く、おぐらりゅうじだった。

 おぐらりゅうじもまたこの日の「テベ・コンヒーロ」に強い衝撃を受け、ぼくの一連のツイートを読んで、こいつにコウメ太夫に関する文章を書かせてみたらどうだろう、と思いついてくれたそうだ。電話でそれを直接本人から知らされ、ああもうそれはありがとうございます、喜んで書かせていただきますとも、なんて言いながら、「ちなみに特集は全部で何ページなんですか?」「3ページの予定です」「おお、テベ・コンで3ページ特集! 楽しみです」「いや、じゃなくて、コウメ太夫スペシャルの特集なんです」「え?」「テベ・コンっていう番組の特集じゃなくて、コウメ太夫スペシャルの特集で、3ページやります」。どう考えても、どうかしている。既に放送が終わった回だけの特集。天下のテレビブロスで。誰が喜ぶんだそんな特集。俺が喜ぶよ。それで、一生懸命書いた。いやあ、どうかしてるなあ、と、思いながら。笑いながら。

「それでさあ、相沢氏、特集のタイトルは『どうした!?水道橋博士』にしようと思ってんだけど」

 おぐらりゅうじから提案を受けたその夜、ぼくは最後まで、乗り気ではなかった。水道橋博士が嫌いだからではない。むしろ、好きすぎるからだ。たとえばぼくは、浅草キッドが1997年から2000年まで主催していた浅草お兄さん会のいちファンだったし、「お笑い男の星座」の愛読者だし、水道橋博士の文体や視点には強く影響を受けている。そしてそれを自覚している。幸運にも縁あって水道橋博士とは面識もあるが、そんなことは関係ない、ぼくは今でも水道橋博士の大ファンなのだ。だからこそ、この特集に関わりたいとは言えなかった。自分はまだそれを出来るような人間じゃない。適任者はほかにもいるだろう。その日はついに、良い返事はせず、酔い潰れて帰った。どうやって帰ってきたのかも覚えていない。でも、布団に入り、目をつぶる前にこう思ったことは覚えている。これがもし星座だとするならば、おぐらりゅうじがテレビブロス水道橋博士の特集をするとき、その相手は俺じゃないといけないんじゃないのか?と。

 星座とはいつも、あとから気付かれるものだ。星座が繋がれたその瞬間、人はそれにあまり気付かない。ぼくもおぐらりゅうじもそうだった。この二人を繋ぐ星座は、あくまでもいま思えばだが、2001年7月7日、今から12年も前の七夕の日から始まっている。この日、TOKYO MXという東京ローカルのU局で、「テレバイダー」という番組が放送を開始したのだった。ニュース形式のバラエティ番組で、U局という微妙な立ち位置をときに自虐に変え、あるいはそれを逆手にとってキー局では言えないことをこっそりとユーモアをまぶして伝える、どうかしている生放送のレギュラー番組だった。ぼくは当時の(今でもだが)師匠に誘われる形で、この番組の放送作家としてデビューする。自分が言うのも何だが、面白い番組で、話題も集めた。東京ローカル番組だが、それこそテレビブロスも特集を組んでくれて、顔出しでインタビューまで受けた。あのときのブロス、取っておけば良かったなあ、ってそれはさておき。「テレバイダー」は最後まで失速することなく、1年半でその華麗ながら短い生涯を終えた。

 その頃おぐらりゅうじは「テレバイダー」を、視聴者として観ていた。ぼくが書いた原稿で笑ったことも、何度かはあったんじゃないだろうかと思う、というかあってほしいものだ。そしておぐらりゅうじは「テレバイダー」がとても好きだったそうで、あまりに好きがこうじてしまい、ぼくの師匠に弟子入りしたらしい。らしい、という伝聞形になってしまうのは、ぼくは当時色々あって大学受験の真っ最中で数ヶ月だけ仕事を休んでいる期間で、その場にいなかったからだ。だからこの辺りの話はおぐらりゅうじが語る形でしか知らないのだが、彼は師匠にはハマらなかったらしく、おぐらりゅうじ本人の言葉を借りれば「破門」となる。ハマるハマらないというのは時機や指向性や色々な要因が重なるものだが、ともかく「破門」となったおぐらりゅうじは、しかしテレビが好きで、なおかつ雑誌も好きだったため、THE TV MAGAZINE OF THE FUTURE、テレビブロスの編集部員となるのだった。

 この話は全て、おぐらりゅうじと直接会ってから聞いた話なので、勿論当時は知る由もない。おぐらりゅうじは師匠からぼくの話を聞かされていたそうだが、ぼくは自分がいない間に同い年の人間が「破門」になったことさえ知らなかった。それでも確かに、ぼくとおぐらりゅうじは、「テレバイダー」によって人生が決定づけられた二人なのだ。もしも「テレバイダー」が最初の仕事じゃなかったら、ぼくは間違いなくいまこの業界にはいないだろう。そしてもしも「テレバイダー」を観ることがなかったら、おぐらりゅうじはいまこの感じでテレビブロスの編集部員をやってはいないだろう。さらに言うならば、もし「テレバイダー」がなかったら、ぼくとおぐらりゅうじは、その人生で出会うことさえなかっただろう。ぼくにとっておぐらりゅうじは、同い年の友人であり、良い緊張感を保ち合えるライバルであり、お互いに信頼しながらダメ出しをし合えるという素晴らしい仕事のパートナーであることは間違いないので、まあ、出会えて良かった。そして出会ってしまったからには、そこには意味と意義があるというものだ。

テレバイダー」で幸運にも自分の歩く道を見つけることができた、水道橋博士の大ファンである自分がいる。「テレバイダー」で一度は挫折しながらもテレビブロス編集部で奮闘するおぐらりゅうじが、水道橋博士の特集を考えている。星座を見つけてしまった人には、その星座をなぞる責任もあるだろう。思い込みかもしれない。自己愛も多分に混じっているだろう。でもそこに星座が見えたなら、やれることなんて、もう、だって、ねえ?

 目が覚めて、酔いの残る頭を抑えながら、とは言え既に正午も過ぎていたので酷い話だが、まずやったことは、おぐらりゅうじにダイレクトメッセージを送ることだった。「水道橋博士の特集をやるんだったら、年表を作ったほうが良いと思います!」。その日のうちにおぐらりゅうじから、年表はお任せしますとの快諾をもらい、5月8日、「どうした!?水道橋博士」特集は動き出しました。そして特集の掲載が決定したのは6月25日。この日に奇遇にも、というか必然なのでしょうが、深夜に自分はメルマ旬報の連載を水道橋博士本人から直々に依頼され(このとき博士はブロスの特集が動いていることすら知らなかったのだけど)、そして翌日てれびのスキマさんからは、おお!という近況を知らされ、このあたりもいつか星座が見つけられることだとは思うのですが、それはまたきっと、後日の誰かが紡ぐでしょう。星座とは、そういった種類のものなのですから。

 というわけで、そんなおぐらりゅうじくんが全面的に担当し、ぼくも年表制作などで協力している「どうした!?水道橋博士」特集は、今売りのテレビブロス(表紙はきゃりーぱみゅぱみゅ)に掲載されております。皆様機会がありましたら、何卒お買い求めください。宜しくお願い申し上げます。

 …という感じの締めで、このエントリは終わらない。まだちょっとだけ続きます。こうして始まった「どうした!?水道橋博士」特集は、6月25日の決定から即、同月28日の「水道橋博士のメルマ旬報」編集会議での直接対面へとなだれ込みます。そしてその場で水道橋博士本人から、ぼくとおぐらりゅうじは、翌日、翌日ですよ、翌日の29日の水道橋博士倉庫へのお誘いを受けることになります。いつだって、大事なことはすぐに決まってしまう。とは言え年表もまだまだ不完全なものだったので、28日の会議を受けて、ぼくはおぐらりゅうじくんに、取りあえずブロス編集部に帰ったら「お笑い男の星座」の1部と2部の初回と最終回(そこには「未完」と記されているのですが)のブロス掲載号の日付だけ教えてほしい、と言い渡すわけです。そこはまあ、確実にテレビブロスの年表には記されていないとまずい事実ではあるので。

 ぼくはぼくで、自宅に戻って、年表を進める。だって、翌日に水道橋博士本人から直接話を聞けるわけで、そこは出来る限りやっとかないとまずい。必死にやる。物理的に絶対間に合わないけど、やれるところまではやる。そんな作業をしてたら、夜中、電話がかかってくるわけですよ。誰だよ? おぐらりゅうじだよ。まあ、そりゃそうだ、こんな時間に電話してくるのは、おぐらりゅうじだろう、そりゃあ。向こうの進展も聞きたいので電話に出ると、おぐらりゅうじは、笑ってるんだけど、なんだか興奮している気配もある。

「あ、もしもし? いやー、やばいよ! これはやばい! ハハハハハ!」

 誰しもがそうだと思いますけど、自分が集中して仕事してるときに他人の笑い声って聞きたくないわけですよ。面倒くせえなあ、って。何なんだよ? 良いよ、メールで。大概のことは。メールじゃなくて電話してくるって、意味を持つじゃんか。「お笑い男の星座」の1部と2部の初回と最終回のブロスの日付だけメールで送ってくれれば良いのにさあ、って。

「いや、今ね、『お笑い男の星座』のブロスの掲載号、調べてたんだけどさあ」

 そうだよ、それが知りたいんだよ、俺は! それだけが知りたいんだよ、ほかの知識とかは今はいらねえから! 明日、水道橋博士の倉庫見せてもらうんだから、そのほかの情報とか本当いらねえから! 口頭でも良いから、その号の日付を言えよ、おめえはよ、おぐらりゅうじ!

「『お笑い男の星座』の第二部の最後の回を掲載してる号が見つかってね」

 いやだからその号の日付を言えよ!

「その号の特集って、何だと思う?」

 知らねえよ! 知るわけねえだろ…って、え? ええ? いやいやでも、そんなわけないじゃん。って思いつつも、その答え、一つしかねえじゃん。でもマジで? ああ、でも、そうなんだろうなあ。そういうことなんだろうな、本当に。あり得ないよなあ。でもそうなんだよなあ。星座ってのは、まあ、そうだ。たぶん、そういうことなのだ。

「『お笑い男の星座』の第二部の最後の回が掲載されてる号の特集、『テレバイダー』だったよ! この号のブロスに、相沢氏、写真付きで載ってるよ!」

 いまこの瞬間のことを思い返しても、事実だとは思えない。あまりにも出来すぎている。でもこれは確かな事実で、ぼくもおぐらくんも、勿論水道橋博士だって絶対に覚えていないことだけど、そういう風にして、星座はただ黙ってそこにある。ぼくらはそれにあとから気付く。人はただ、その場その場を精一杯生きているだけなのに、そこに勝手に物語が紡がれていく。星座とはきっと、そのようなものだ。人生をごまかさずにやってきたことに対して天から贈られる、ほんのちょっとした悪戯だ。ぼくらが星を見てるんじゃない。星がぼくらを見ているのだ。

 星座とはいつも、あとから気付かれる。そしてそれは偶然や奇跡なんかじゃない。それはただ、ただ単純に、そういうものなのだって話だ。

夢はわりかしアップロードできるっていう話 〜「ダイノジ大谷ノブ彦のオールナイトニッポン(2013年5月29日放送)」を聴いて〜

 この4月からニッポン放送の水曜深夜1時では「ダイノジ大谷ノブ彦オールナイトニッポン」が始まってまして、まあこれがすっごく良くて、毎週リアルタイムで聴いてるわけです。大人なのに、AMの深夜ラジオとか聴いてんのって、本当どうかって思うんですよ、実際。これは別に斜に構えてるわけじゃなくて、AMの深夜ラジオって、10代のためにあるべきものだってぼくは思ってるので。実際自分はそれで救われてきたって経験もありますからね、そういうのは継いでいったほうが良いし、絶対。いま現在そういうラジオ番組って少ないかもしれないけど、やっぱりAMの深夜ラジオは10代のためにあるべきものだっていうのは強く信じてたりはするんです。

 だってまあ、絶対、いるでしょうしね、それを必要としてる10代が。だから30過ぎた大人がAMの深夜ラジオについてどうこうって、自分は基本的には、違うよな、ってちょっと思ってたりはするんです、心のどこかで。だって俺、ラジオなくても、死なないし。それと比べて10代の頃の自分って、ラジオなかったら、ちょっと危うかったし。そういうのも自覚してるから、「ダイノジ大谷ノブ彦オールナイトニッポン」がいかに30代の自分にとって面白かったとしても、ぎゃあぎゃあ言ったりするのは、それってちょっと違うんじゃねえか、っていうのはどっかにあるんですよ。これは別に批判とか否定とかじゃ勿論なくて、何かを言うこと自体が、10代のリスナーとかあるいは過去の自分に対して失礼なんじゃねえか、って気持ちがちょっとあったりするんです。

 でまた実際、この番組、30代の自分が聴いたら結構な感じで結構なところも結構にあるわけですよ。例えば、ハッシュタグとメールアドレスの頭が「netsu」(熱)ですよ。おいおい、やべえんじゃねえか、っていう。かつて火曜深夜1時にやってた「石川よしひろオールナイトニッポン」的な、やべえ感ですよ。当時聴いてない人には分からないかもしれないけど、やべえな、っていう。かつ大谷さんって自分のこと「ボス」ってリスナーに呼ばせようとしてるんですよ。これもう結構にやべえなって感じじゃないですか。石川よしひろさんも「アニキ」って呼ばせてましたよ。なおかつ番組のテーマが「洋楽で世界を変える!」ですよ。世界を変えるとか、自分で言っちゃうの、超やべえなっていう。超石川よしひろ的なやべえやつですよ。やべえ、って言葉が分かりづらいなら、まあ、痛いわけですよ。そんなラジオが、いま毎週水曜深夜1時にやってるんですよね。

 で、5月29日の放送で、大谷ノブ彦は、こんなことを言っちゃうわけです。

「夢は、叶うんだよ」

 文字だけで読んだら、超やべえじゃないですか。身悶えしますよ、こんなの。あれでしょ? 夢は思い続ければいつか叶うぜ的なポジティブな? ガンバレソング的な? そんであれでしょ、そこそこ努力して夢が叶わなかったとしたら、そのガンバリは決して無駄じゃないよ的な曲でもう一回こするやつでしょ? どうでもいい焼き鳥屋かレンタルビデオ屋でその曲がかかるんでしょ? いや本当、わりと色の濃いめの嘔吐物を吐くから青いビニールの袋持ってきてくれよ、って感じじゃないですか。この文字だけ読んだら、まあまあほとんどの人はそう思っちゃうかもしれないですけども。

 でも、全然違うんです。そもそもこの言葉は、大谷ノブ彦が信奉するビートたけしがラジオで語った(ぼくは聴いてないんですけども)「人間は平等じゃないから夢が叶うなんてのは嘘だ」的な言葉に対してのアンサーなんです。だから大谷ノブ彦の中ではすでに「夢は叶う」は、アンチテーゼだし、ガンバリソング的なコードの中で語られる根拠のないその言葉に対しては自覚して否定してるわけです。ビートたけしが当時突っ込んだアンチが未だに世の中で幅をきかせてるっていうのも色んな意味ですごいなとは思いつつ、それはともかくとして、では大谷ノブ彦はどのような意味合いで「夢は叶う」と言ったのか。これは、ぼくの個人的な気持ちの補足を入れて訳すると、こういうことだと思うんです。

「夢は、(アップロードしていけば)叶う(ような世の中になりつつある)んだよ」

 ってことだと、ぼくは思って。これが本当に、すごいなあ、っていうか、「ダイノジ大谷ノブ彦オールナイトニッポン」、やっぱり外せねえなあ、って感じなんです。

 これは理想の話ではなくて、経済の話です。ビートたけしは、理想のコードにおける「夢は叶う」という言葉を否定しました。実際、そうです。夢なんて、叶いにくいからこそ、夢なんだと。大多数の人間はその夢を叶えることなく戦場を去って行くわけです。実際その通りです。みんながみんな、夢を叶えていけるわけではない。その通りの話です。特に芸能や特殊技術の世界であればことさらそうでしょう。夢が固定化されている、「なる」ということ自体が夢であるなら、その尊い夢を叶えられなかった者は量産されていく。まったくもってその通りです。しかし、それは、これはもう言ってしまえば、夢を叶えちゃった人からの理屈なわけです。じゃあ、でも、そうじゃない人はどうすんの? 夢が破れたら、そこで終わりなのか? そこで、大谷ノブ彦が語りだすわけです。そうじゃねえよと。負けた者からの理屈を紡ぐわけです。それは間違いなく、ビートたけしには、出来ないことです、絶対に。

 大谷ノブ彦は、夢を変えてしまうことを、示唆します。これはレトリックでありながら、自分を曲げずに暮らし続けることの志向が要請するヒントでもあります。つまり、そもそも、夢、って何なの?ってことです。たとえば「プロ野球選手になること」が夢だったとします。でもその夢を叶えることが出来るのは少数派だし、ほとんどの人はその夢を叶えることはできない。でも、だから、何なの?って話だったりします、本当は。もっと根源的なところに、夢、はあるんじゃないの?ってことです。突き詰めて「好きな野球で飯を食うこと」なら、色々な仕事があるわけです。どんな仕事であれ野球で食っていきたい、なら、色んなやり方がある。プロ野球じゃなくても良いだろうし、そもそも日本じゃなくたっていい。夢、を突き詰めると、そういう可能性が出てくるわけです。

 大谷ノブ彦という人間は職業に対して非常に自覚的な人だし、ノーブランド芸人以降の「芸人」という職業に対しても、間違いなく大きな問題意識を持っている人です。だからこそ、「芸人」という職業が、無理筋なことも誰よりも理解している人だと思います。売れるとか売れないとか、冠番組とかいう以前に、その先に彼らが生涯立てる舞台があるのかということを、考えている人です。それでも彼は「夢は叶う」と言う。こういう時代だから。月に何円使ってくれるファンが何人いれば飯が食えるか、を、数字で考えている。それが出来るのは、夢ってものは、自由にアップロードできるしそうあるべきだ、って、彼の中で考えているからだと思うわけです。

 夢なんて、言葉にすりゃ簡単だけど、言葉にできないくらい複雑だから、夢なんです。だから夢は、挫折するたびに、変える事が出来る。それは敗北じゃなくて、成長なんだとぼくは思います。

 もっと言えば、夢なんてもんは、叶ったり、叶わなかったりするものでもないんじゃないかとさえ思ったりもするんです。そんなに単純なものでもないし。でも、今は本当に、沢山のやり方がある。自分の作品を世に出す場もあるし、Twitterを使えば尊敬する人と繋がることが出来る。こんなに恵まれた状況なんてたぶん過去なかったし、いまやれない人は、多分、ずっとやれないぐらいの環境はすぐそこにあって。それが本当の自分の夢だったのかどうかなんて、終わってから考えれば良いんだと思います。そもそも、何がやりたいの? それが出来る環境がここにあるから、その問いは、とても重要な問いになっているのではないでしょうか。

 ってな具合でね。

 本当は、後半の言いたいことをもうちょっとさらって終わらせて、ぼくが最初に聴いたラジオは「石川よしひろオールナイトニッポン」でした、って、粋な具合で締めたかったんですけどね。まあ、思春期にAMラジオ聴いてるやつが書く文章なんか、こんな風にださい感じになっちゃうので、10代のみんなは頑張ってな! お前は絶対お洒落な生き方はしないだろうけど、うまい酒を奢ってやるぐらいの余裕は財布に持たせとくぜ、って感じで生きてるよ、32歳になっても未だにな。達者でやれよ。俺も頑張るわ。お前に負けてる場合じゃねえんだ、本当によ。