陰日向に咲く

 劇団ひとり陰日向に咲く
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 笑いという行為に最も欠かせない概念とは何かといえばそれは対象化である。人、行為や物事、物語を一個の対象として何らかの評価を下すことが出来なければ笑いは生まれず、つまり必死な人は必死なときには笑わない。戦争を笑うことができるのはその戦争を対象化している者に限る。だがそれだけでは江戸/むらさきのショートコントであって、より深いところへ行きたければ没入化という行為が必要になる。何らかの「もの」「こと」に対して狂ったように没入し、同時に没入した「もの」「こと」あるいは自分自身を対象として評価を下す、その二つの矛盾した論理を同時に受け入れることができない人間には、ちょっと「陰日向に咲く」は書けないだろう。

 劇団ひとりさんがアイドルヲタかどうかは知らない。しかしアイドルヲタでなかったとすれば、彼の「アイドルヲタ」に対する没入の仕方に驚くべきだし、アイドルヲタであったとすれば、彼の「アイドルヲタ」に対する対象化の精密さに驚くべきだろう。

 この世の誰よりも何よりもミャーコを想う。
 でも、その想いは決して敵わないとわかっていた。わかっていたが、それでも望んでしまう愚かな自分がいた。
(略)
 ミャーコを好きになった時点で僕は失恋していた。

 銭湯でスッポンポンになるのは当たり前のことだが、街でスッポンポンになるのは問題だ。それと同じように秋葉原を歩いている分にはまったく問題のなかった僕の格好も、ここではスッポンポンと同じ。

「ミャーコを好きになった時点で僕は失恋していた。」という一文は、アイドルを愛したことのない人間には決して書けない。この気持ちは痛いほどによく分かるし、確かに私たちはアイドルと失恋するためにアイドルを愛しているのである。しかし同時に、ヲタが着ている服装が変だ、というもっともな事実に気付くことは実際困難である。

 そしてこれは、テクニックなどではなく、一種の思想であり生き方なのだ。つまり劇団ひとりさんは、人間として素晴らしい。何かに没入して、没入しきって、さらにそこで同時に対象化するというのはひとつの人生を生きることだと言ってもいい。そこには優しさが、そして愛がある。

「愛する」という心の中の動きを「行為」として見なしてしまえば、「アイドルを愛する」という心の中の動き=行為を笑えてしまうではないか。だったら世の中に、笑えるものなんてなくなってしまうのではないのか。

 このあいだ自分で書いたものだが、確かにその通りだ。だからこそそこで必要となるのは優しさ、あるいは愛でしかない。「愛する」という心の中の動きを「行為」としてみなさないという優しさであり、愛である。そしてその優しさあるいは愛は、没入化なしには決して生まれないものなのだ。没入化するということ、それは他人の人生を自分の人生として引き受けるということであり、こんな無駄なことをわざわざするということが、人間のあるべき生き方なのだ。

 余談だが「女の子」としてのテクニックというか手法。

 このカメラは全部を撮りきったら、それで終わりのカメラなんだって。

 あんなに汚いキスシーンは世界中を探したってどこにもないと思う。
 でもね、本当にあの時、鳴子は目の前の馬鹿に運命を感じたんだ。

「運命」を感じるのは常に主体であり「私」である。「私」がいないところに運命は存在しない。