風刺画問題

 7号目にしてはじめてクーリエ・ジャポンを読みまして、面白い。メインの特集は「巨象インドの野望」だそうで、まあ正直なところ「巨象」って言われ方もひどいような気もしますが、ちょっと突然だし、何も象に例えなくてもいいのではないかと思いますが、まあ小さい象よりは大きい象の方がいいとは思うので不幸中の幸いと言えるかもしれない。それはそれとして特集「ムハンマド風刺漫画をめぐる『文明の衝突』」を読んで色々と思った。

 要はデンマークの新聞がムハンマドをテロリストのように描いた漫画を掲載して、その描き方もさることながらイスラム教ではムハンマドを偶像化すること自体禁じているため、ふざけるな、という激怒したイスラム教徒たちがよその国の国旗を焼いたり暴れたりして大騒ぎ、というのが問題となっているようである。ようであるというか多分なっている。そう聞いた。

 で、この件を取り上げる上で避けて通れないのはどうやら「表現の自由」ということになっているらしい。「表現の自由」は守られなければならないから、デンマークの新聞が風刺画を掲載したのは全面的に罰せられるべきではない。ただ同時に「信仰の自由」もあるわけで、だから「信仰の自由」を侵す「表現の自由」ってどうなのか? イスラム教徒の信仰心を傷つけることが分かっていて風刺画を掲載するのは良くないし、メディアにたずさわる人間はもっとしっかり考えなさいと、筑紫が確か言っていた。

 一理あるかもしれない。わざわざ世界に暴力を増やす必要はないのだし、みんなが楽しめる世界が想像できるなら私たちはその世界に向けてこの世界を変えて行くべきだろう。だが、本当に、筑紫が言っていることは正しいのだろうか? だとしたら、全ての表現は他人を傷つけてはいけないということになる。そんな世界を私たちは望んでいるのだろうか? もちろんそうではない。というか相沢はそんな世界を望んでいなくて、例えばこれが「イスラム教徒」をバカにした漫画ではなく「巨人ファン」をバカにした漫画だったらどうなのか?

 これは個人的な意見だが、相沢は「巨人ファン」というものをものすごくバカにしている。というかバカだと思っている。これは完全に美意識の問題であって、単純に「巨人ファン」であることを公言するなんてことはもうものすごく恥ずかしいことなんだから恥じろよ、という感じである。しかしまあ、バカだから劣っているというわけではなくて、むしろ「巨人ファンである自分を恥じている巨人ファン」が知り合いに一人いたがその考え方はとても面白いと思っていたし、別に巨人ファンがバカだと公言するつもりもないわけだが、しかし巨人ファンがバカだ、というジョークはジョークとして認めたい。少なくとも巨人ファンはバカだなあ、といって笑うほどの自由はあって当然だろうと思っている。

 で、ここまでは他人の話であった。つまり相沢は「巨人ファン」ではないから「巨人ファン」を笑う側だった。しかし「アイドルファン」ということになると話は相沢自身の話になり、果たして「アイドルファン」は「アイドルファン」であるという理由において笑われてもいいものかどうか?という話になる。で、ここは実に微妙なところである。確かに私たち「アイドルファン」は「アイドルファン」であるがゆえに、それのみを理由に笑われがちで、私たちはその現状を聞き流しているふしはあるが、どうなのか? 「アイドルファン」であるということは、それだけで笑われてもいいのか?

 相沢の考えるところでは、結論から言うが、「アイドルファン」であること自体は絶対に笑われるべきではないと思う。しかし「アイドルファン」としての行為は、笑われるなら笑われなければならないだろう。要は、笑われるべきはその人の信条や心ではなく、行為それ自体なのだ。つまり「アイドルファン」であること自体は笑われるべきではない、それは完全に個人の自由である(つまり誰を愛したっていい。個人の心の中は絶対的に自由だ)が、しかし「アイドルのコンサートで音に合わせて踊ったりする」という行為は笑われても仕方ないことである。行為とはつまり他者の目に触れるということであり、そこを「笑うな」と言っても仕方がない。

 要は風刺画問題とは、「信仰の自由」と「表現の自由」の対立などではない。何故ならば「信仰の自由」とは個人の心の中に対しての自由を、「表現の自由」とは行為に対しての自由を主張するものなのだから、そもそも語っている次元が違う。だから筑紫の言っていることは別に間違っているとは言わないが、もし正しいとしても、論理的に正しいがまったく別のことを言っているにすぎない。言ってみれば風刺画問題がよろしくないのは信仰それ自体を笑いの対象にしてしまったからであって、例えば「風刺画を掲載されて怒ったイスラム教徒がよその国の国旗に火をつけて騒ぐ」という行為自体を笑いの対象とするのであれば、そこではじめて問題は「表現の自由」に関する問題に行き着くのである。

 と、ここで結論が出たような気になるのは早計である。上の議論は明らかに正しい。正しいが、同時に明らかに安直である。何が安直かって、そこで「心の中」と「行為」をきっかり分けることが果たしてできるのかどうかということだ。それはかなり難しい。というか「愛する」という心の中の動きを「行為」として見なしてしまえば、「アイドルを愛する」という心の中の動き=行為を笑えてしまうではないか。だったら世の中に、笑えるものなんてなくなってしまうのではないのか。「イスラム教徒」と「アイドルファン」を笑えるか笑えないかの区別とは、「イスラム教徒は笑うと危険なことをするがアイドルファンは笑っても何もしない」ってそこだけなのか? そんなに世界は窮屈なのだろうか? 「表現」とはそんな風にして、必死で周囲に気を使わないとできないものなのだって、そんな結論であっていいのか?

 長い上に尻をぬぐえなくて申し訳ないと思う。しかしどうなっているんだろうか? 全てのブロガーは「表現」について大なり小なりの意見をお持ちだと思うが、皆さんの見解はどうなっていますか?