小倉優子

 テレビ。ミドル3。シャッフルトーク。ゲストの小倉優子さんが「今の二人のトークの点数は何点ですか?」という問いに対して。ひと組目は「2点」、ふた組目は「50点」(うけてのトークでマイナス50点に変更)、そして最後のさん組目。

「いちまんてーん」

 これはすごい。ちょっと衝撃的だった。従来のテレビ番組(例えばクイズ番組など)でも「最後の問題だけ異常に高得点でおいおいそれやったら今までの流れは意味なかったやおまへんか」的な使い古された番組ルール破壊は存在しているが、それはあくまでもルールを作る側がルールを破壊したにすぎず、今回の小倉優子さんの場合とは話は違う。何故ならば、ミドル3の「出演者が点数を100点満点でつける」というルールの成立に、出演者である小倉優子さんは関与していないからである。

 小倉優子さんはこの番組における出演者である以上は、あくまでも番組ルールを踏襲するいわばゲームのプレイヤーであるべきなのだ。番組をひとつの「ゲーム」とし出演者をその「プレイヤー」とする見せ方は全ての『良く出来た』創作物に共通する手法である。およそ自由に見えるトーク番組であってもその手法は変わらないために、出演者に対しての「空気読めや」という注意が成立するのであって、つまりそのゲームには「プレイヤーは空気を読むべき」というルールが暗黙のうちに了解されているわけだ。そのルールはプレイヤーによって異なる。だから村上ショージさんなどは「空気を読まなくても良い」というルールが例外的に成立するプレイヤーであって、例えばテレビ的な名司会者(さんま師匠、紳介師匠…)などといった方々は、その人それぞれに与えられたルールをいち早く見抜く能力に長けているのだろう。

 話がそれたので元に戻せば、この小倉優子さんの発言はプレイヤーとしての発言でありながら、その内容はプレイヤーとしての範囲を大きく逸脱しているという点で余りにも画期的である。つまりは「お前それだったら何でもアリか」ということであって、事実、本来は何でもアリなのだ。全てのルールとは暗黙のうちに了解されるものであって、実はそこには何の強制力もない。実際のところ我々が頼るものなど、この世界に何一つとしてないのだ。

 小倉優子さんは、自らのキャラクターによってルール自体を破壊した。これはつまり、ルールよりもキャラクターが先行するという圧倒的な事実だ。新しいキャラクターは新しい種類のボケを生む。そしてそのボケが「アリ」なものであれば、それはルールよりも優先されるのである。恐ろしいことだ。そして大いなる可能性を感じる。新しいキャラクターに依存する新しいボケをもっともっと見たいという根源的なヒトとしての好奇心に、一体だれが抗うことができるだろう?

 しかしそれは、ルールの死滅を同時に意味する。だからテレビマンたちは、小倉優子さんを一刻も早く幽閉しなくてはならない。彼女は間違いなくテレビを殺す。いまやブラウン管の向こう側で、静かな革命が行なわれているのだ。