返答

 相沢は平和主義的な生き方を良しとする平和主義的な人間ではあるが、馳浩に憧れるロマンチックな一面もあるため「売られたケンカは買う」主義だ。
 id:acme:20050405#p2

…その企画のテレビ的な意味あいでのコノテーションは比較なのだから…

 そもそも革命とは何かという話だが、革命の話題においてコノテーションを持ち出すべきではないだろう。革命とは一般的なデノテーションを個人的なコノテーションで凌駕する試みであるべきなのだから、「テレビ的な意味あい」で言うのならばコノテーションではなくむしろデノテーションをこそ問題にすべきではないか。だからid:acmeの上記の指摘は正しいかもしれないが、しかし残念ながら価値がない。ここでの「テレビ的な意味あい」でのデノテーションは、あくまでも「100点満点で点数をつける」という行為であって他にはない。たとえid:acmeの指摘する通りコノテーションが比較であったとしても。(事実出演者はそれまでに何度も「100点満点」という言葉を強調しているし、小倉優子さんの直前に登場した川島なお美さんも「100点満点」で点数をつけていたのである)

 さらに言うならば閣下ならびに魚武はまったく革命などではないだろう。彼らは突飛であることを意識している(少なくとも我々の目にそう映る)という点で完全に革命に失敗しているではないか。小倉優子さんの実に革命的な部分は革命的な行動を起こそうとしていないように見える点であって、しかしそれこそが革命そのものである。革命とは「さあ今から革命を起こそう!」と言って起こるものではない。そう言った時点ですでに革命ではないのである。だから無自覚に満点をつけるYAWARAさんは革命であると言えるだろう。しかしまあ、2005年の今になって、YAWARA言及をする価値が果たしてあるのかどうか?

あるものを「認める」ことで認めたものが認めた以上の奇跡をもたらしたとしても、それのせいでそれとは別に新しくでてきたある種の認める価値あるものを「認める」ことができないというのは分裂している。

 もちろんそんなことは重々承知していて、そのことは既に書いた。そちらが正しいということは知っている。だがだからこそそうではない道を進むという選択もあり得るのだし、愛として愛に生きる相沢(愛沢?)はそのような道を選んだ、あるいは選ばざるを得なかったのだ。もちろん愛という言葉で全てを片付けるつもりはない。だが、

…多勢が新しいものを「認める」結果として古いものを「認める」ものが減りその哀れにさえ魅力を感じるような倒錯者が…

 その哀れにさえ魅力を感じるような倒錯者であっても良いのではないか。全ての決断は経済的に妥当なものでなくてはならない、とでも? 少なくとも「古いもの」を愛する自分を愛するのではなく、「古いもの」に準じるものならば全て(それが彼女たちの「哀れ」自体であっても)愛するという決断からなされた愛であれば、それはやはり筋が通っているのではないか。もっとも

必ずや近いうちに世界史の教科書に載る新しいものの握手会を経験しないですます

 などといった乱暴な書き方をするid:acmeにこの説明が伝わるとは思えないが。「経験しないですます」? 何を言っているのか分かっているのだろうか? 彼女たちは我々に「経験」されるためにそこにいるのではない。彼女たちと我々はそれぞれ独自に「経験」すべきなのであって、その「経験」がほんの一瞬重なり合うとき、我々は喜びに震えるのではないのか。まったく馬鹿げている。あの子たちに謝罪してほしい。そもそもあの八人のフルネームを、id:acmeはそらで言うことが出来るのだろうか?

 メイドと恋に関する言及はよく意味が分からない。そもそも恋は「うまれ」るものなどではなく気がつけばそこにあるものであって、我々は常に後から恋に気付くことしか出来ないのではないか? そして荻窪は誰がどう言おうと最高であって議論の余地はない。