園子温「非道に生きる」〜道なき道の上で歳をとるために(32歳編)〜

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 非常に個人的な話で恐縮ですが、しかしまあ、人が文章を綴る以上そこには多かれ少なかれ個人的な事情が介在するものでしょうから、それほど恐縮する必要もないのでしょうし、また実際のところ本当に恐縮しているわけではないのですが、自分のようなものの個人的な話をお聞きいただけるのであれば、今年で32歳になってしまいました。ただ死なずにいるだけで人は歳をとってしまうという、恐ろしい事実がここにあります。加齢には飛び級というものが存在していないはずなので、このまま行けば、次は33歳、また次は34歳というように、一つずつ歳をとっていくわけです。自分の意思など、まったく関係のないところで。

 つまり人は「よし、歳をとろう」と思って歳をとっていくわけではありません。「今日はなんだか気分が良いから、ここらでいっちょ歳をとってみるか」だとか「まだ自分に自信が持てていないから、今年は歳をとるのをやめておこう」だとか、歳をとるというのはそういうものではなく、人は一年に一度、急に歳をとらされるのです。なんとマッチョなことでしょうか。しかしこれは、政治家がちゃんとしていないからとか、日本国憲法アメリカから押し付けられたものだからとか、そういう問題ではありません。人は歳をとるものなのです。そこに理屈はありません。人はただ、ひたすら歳をとっていく。人生をやめない限り、歳はとらされていくものなのです。

 そのようにして私は32歳になったわけですが、全ての年齢がそうであるように、32歳というのはいくつかの点でなかなかに難しいものがあります。まず、体力の衰え。若い人には想像もつかないでしょうが、基本、毎日、調子が悪い。アスリートでもないのに、自分の体を意識せざるを得なくなります。かつて当たり前だったことが、当たり前のように失われていきます。例えば自分は物心ついたころから痩せているというのが肉体的な特徴でしたが、この年齢になると、異常に腹が出てきます。これまでずっとパンクロッカーのような体型であったにも関わらず、お腹だけがただ膨らんでいくのをただ呆然と見つめるしかほかに手はなく、愕然とする。徹夜も出来なくなる。すぐ寝てしまう。おっちょこちょいな食いしん坊のような、そういった存在になっていきます。

 そしてまた、社会的な存在としても、なかなかに考えることが多くなります。例えば、同い年の知人や友人が、子持ちになっていきます。マジかよ、と。まあ、マジなわけです。よくよく考えれば自分の両親も、いまの自分の年齢くらいで自分を産んでいるわけで、当たり前と言えば当たり前の話なのでしょうが、ついこのあいだまで「俺が広末だったらお前と付き合うわ」ってなことを言っていたような友人が父になるんですから、これはリアルです。自分はもう、広末になることが出来ない。そりゃそうだろ、ってな話ですし、実際本気で広末になろうとしていたわけではないのですが、そりゃそうだろに対して抗うために発し続けていた冗談が、そりゃそうだろに変わっていく、それはなかなかにリアルであり、焦る機会は多くなります。

 しかし32歳という年齢は、もはや子どもではありません。もちろん人によるでしょうが、ある程度の仕事を任される年齢でもあります。そしてまた、ちゃんと考えて仕事をしてきた人であれば、かなりの仕事が出来る年齢でもあります。少なくとも、こなすことが出来る年齢です。一般的に仕事がこなせるか否かというのは想像力の質と早さに依るわけですが、それなりの経験も積んできているので、その経験知をもとにこれから起こることや起こってはいけないことを考えることが出来るようになっているはずです。なっていなかったら馬鹿です。少なくとも、自分のやり方が、分かっている。それを意識しているかしていないかは別として、自分なりの仕事のやり方が、ある程度出来上がっている年齢でもあります。

 そして、32歳という年齢の問題は、まさしくそこに存在しているのです。自分のやり方が、分かっている。手法が身についてしまっている。自分ならこういうときにこうするだろう、こう言うだろう、こう対処するだろう、というのが、身についている。フォームが出来ている。実際問題、それで仕事はこなせるわけです。でも、じゃあ、それを求めていたんだろうか? って、そんなわきゃない。今ある自分が、ベストなわけがない。たまたまそうなってしまったから、そうしてるだけであって、ほかの道筋もいくらだってあったはずだ。だとしたら、まだもうちょっとだけ、足掻いたって良いんじゃないか? 32歳という年齢は、いま自分がそうである以外の可能性を捨てるほどには、老いてはないんじゃないだろうか? 実際、たぶん、そうです。本当は、これから先、いくつになってもそうなんでしょう。捨てきれない自分、諦めきれない自分が、まだどこかで呼ばれるのを待っている。

 前段が異常に長くなりましたが、園子温非道に生きる」は、映画監督が映画術を語った本ではなく、そこにはあくまで冷静かつ客観的に、歳をとることの手法が綴られています。情熱をもって仕事をするためには、考え抜くことが必要であるという、全ての職業人に対して与えられている、当たり前のルールと作法と手法が語られています。「非道に生きる」という書籍名の「非道」とは、「映画の外道、映画の非道を生き抜きたい」という園監督の映画に対する姿勢を象徴する言葉ではありますが、むしろ、道なき道を生きる、という人が当たり前のようにやらざるを得ない行為に対しての手法と忠告を親身になって記しているからこそ、この書籍名には「非道」という言葉が使われているのでしょう。

 道なき道を生きるということ。ほかにない道を自分で作るしかないということ。20代の自分であれば、勢いだけでやれていたそれは、年齢とともに難しくなり、あきらめることは容易くなります。でもそれは、実際、本意ではない。ではどうするのか。あきらめない、あきらめられないための理由を、考えて、実戦するしかない。そのための手法が、「非道に生きる」には書かれているので、長文ですが、引用します。

 僕の持論では、ロールモデルはその都度の自分に合わせて切り替えが可能です。たとえば、20代にシド・ヴィシャスのような夭逝を願っていた人間が30歳を過ぎてしまったらどうしたらいいのか。大丈夫です。そこにはイエス・キリストがいます。しかし40代に突入しても宗教を始められなかったらどうすればいいのか。それでも大丈夫です。そこには40代でデビューしたフランスの映画監督、ロベール・ブレッソンのような人間が待っています。そうした都合のよさで、自分を信じ続ければいいのです。

 要は、32歳なんて、まだまだなんです。人は生きている限りにおいて、迷い、惑い、抗う資格がある。園子温非道に生きる」が教えてくれるのは、そんな当たり前の真理なのでした。