「ゲーセンで出会った不思議な子の話」を読んでぼくが泣くために必要だった三つのこと

 ゲーセンで出会った不思議な子の話:哲学ニュースnwk

 っていうのが、いま話題になっているわけですよ。まだ読んでない方のために簡単に説明すると、まあ2ちゃんの独白スレのまとめです。で、ここから先はネタバレありというか、このまとめを既にあなたが読んでいることを前提として話を進めますので、上記のまとめをこれから読もうと思ってる方とかはこのままページを閉じてください。良いですか? ちゃんと閉じましたか? それでは、続けさせていただきます。

 まあ、難病の彼女が死んじゃう話ですよ、言っちゃえば。その通りですよ。ぼくは生まれてこの方、こういうセカチュー的なお話を忌み嫌うことで自我を保ってきた人間ですから、嫌い、というか近付くことすら避けてきたんですよ。そもそも、死を感動要素として使うのは下品だよなと思ってましたし、今でもそう思ってますし、だってさあ、死んだらそりゃ泣くじゃん。それで実際に泣いて、感動しました、って、そんなのただの馬鹿じゃん。ずっとそう思って生きてきたんですからね、こんなまとめ、読み終わったらさぞかし死んだ魚のような目をしてるんだろうなあ、そういう人間だしなあ、って思ってたんです。そのほうが自分らしいって、今でもそう思ってるんですよ。そんな風にして、自分を保つ生き方をしてる人間も、世の中にはいるんです。それは本当に、大切な自分なんですよ、こんなんで泣くわけがないっていう自分っていうのは。

 いやー、泣いたわ。自分でもマジかって思うほど泣いた。ちょっと引くぐらい泣いちゃって、我を取り戻すためにエッチなDVDとか観ちゃって、それはあいださくらさんの「男湯タオル一枚入ってみませんか?」っていうやつだったんですけど、ああ、俺こういうフェイクに近いドキュメントタッチのエロいやつって全然乗れねえなあ、って自分の性癖を再確認しましてね。今度は企画モノじゃないやつを借りよう、って決意はしましたけど、もう全然あの興奮の昂りが収まらないんですよ、残念なことに。だから、色々と考えるわけです。なぜ自分は、このまとめでこんなになるまで泣いちゃったんだろう、って。これは、自分の人生が懸かってる問いですよ、大げさじゃなく。あのまとめで、なぜ自分は泣いてしまったのか。泣くはずのない自分が図らずも泣くために必要だった要素とは果たして何なのか。

 まず、一つ目。これは大前提となりますが「自分が女性に対して性的感情を抱き、かつ吹石(彼女)が完全に自分の好みのタイプだった」ということ。これが満たされていなかったなら、自分は確実に泣かなかった自信があります。でもさー、吹石がさー、可愛いんだよ! 本当に! だって、ゲーセンで会って美大キャスケットかぶってて、たまに「ジュース買おうぜ〜」とか「わからんなw」とか男口調になる女の子なんですよ? これは趣味の問題になりますが、もう、駄目なんです自分、こういうの。好きすぎて駄目なんです。この、吹石(彼女)が自分の中では完璧に魅力的であり、最後の最後まで自分を惹き付け続けたというのが、自分の泣いた最初の大前提です。

 だからこの時点で、陳腐な話すぎて乗れない、っていう考え方は、自分の中では削除されるわけです。これはきっと、キャラクターとストーリーのどちらが優先されるべきか、あるいはその二つは優劣で語られ得るのかという話に繋がるのですが、少なくとも、キャラクターとは他の全てを凌駕する(その可能性がある)のだなと、ぼくは今回の件で身を持って知りました。だってもう、死ぬって分かってる話ですからね、最初から。それでも、キャラクターに魅了されれば、泣かざるを得ないという。だから、まずは好みなんですよ、本当に。ぼくは吹石(彼女)が好きだし、そうじゃない人もいるし、そんなのは当たり前の話で。好きな人が死んだら泣くんですよ、誰だって。その描かれ方に対して誰がどうこう言っても、それは泣く人にとっては文字通りの他人事にすぎない。だからここがまず、最初の分かれ道だったのでしょう、おそらくは。

 続いて、二つ目。「自分が青春時代にちゃんと異性と恋愛をしたことがなく、かつその事実をコンプレックスとして抱いている」ということ。これも自分にとっては、泣くために必要な要素だったんじゃないかなと。この要素が欠けていたら、1に対してこんなに感情移入できないと思うんですよね。感情移入というか、俺の代わりに1が戦っている、という感覚。その戦いが無為に終わってしまうからこそ、自分は泣いてしまうわけです。

 そもそも、感動して泣くっていうのは何?って話なのですが、すっごく大雑把に二つに分けると、嬉し泣きと悔し泣きだと思うんですよね、わりと一緒くたにしがちですけど。前者の嬉し泣き感動は、登場人物(=俺)が報われた!ってやつですね。「素晴らしき哉、人生!」とか、「トイ・ストーリー」を始めとするピクサー映画とかはこっち。で、後者の悔し泣き感動っていうのは、実は前者とは全然別の次元の泣きだと思うんですよ。言うなれば、前者はベタ泣きで、後者はメタ泣きというか。後者の悔し泣き感動っていうのは、登場人物(=俺)が挫折した! 悔しい! その瞬間、登場人物は(=俺だったもの)に変わってしまい、泣いてる俺は、神視点で「俺だったもの」を観てるんじゃないかと思うんですよ。これはね、自分で書いてても何言ってんだかよく分かんないです。でもなんか、そんな気がするんですよね、うっすらと。

 その上で話を続けると、後者の悔し泣きってメタ泣きなので、相当登場人物に感情移入してないと泣きそのものが成立しないはずなんですよね。「俺だったもの」を、ちゃんと「俺だった」って認識する必要があるから。だからすごく繊細だし難しい…はずなんだけど、実はそうでもなくて、そこが「物語」ってものの凄いところだと思うんですけど、結構大抵の人って、たやすく感情移入しちゃうんですよね、登場人物に。そうしに来てるというか。だからセカチューでみんな泣くわけですよ。ある一定の層には一切響かないけど、そうじゃない人は、やろうと思えば自然にできちゃうという。後者の悔し泣きが商業として成立し得る、かつある一定の層からは完全に否定されるっていうのは、そこに秘密があるんだと思うんですよね。

 この二つ目の要素がなくても泣く人は泣くと思うんですけど、自分のような人間が泣くためには、この1に対する感情移入を強化する要素は必須だった。いわゆるセカチュー層じゃないですからね。あと、その暗黒の青春時代に実際にゲーセンに通ってたとかも、結構大事なことかもしれない。まあいま思えばあの頃はあの頃で楽しかったけど、あの頃の自分には今の自分が見えてないわけで。だから自分が泣くためには、二つ目の要素はやっぱり必須だったと思うわけです。ちゃんと感情移入させてくれたという理由で。

 最後に、三つ目。「自分が配偶者、ないしはどちらかが死ぬまで添い遂げる相手を持ち、かつその相手に対して何かしらの罪悪感をおぼえている」ということ。これが自分にとってはすごく大事な要素で、仮に自分が結婚してなかったとしたら、おそらく泣いてはいなかったと思うんです。というか、最後まで読みすらしなかったでしょう。これは二つ目の要素とも繋がってきますが、人はなぜ、わざわざ悔し泣きをするのか、って話です。忙しい時間を割いて、場合によってはお金を払ってなぜ悔し泣きをしに行くのか。これはわりとキャッチーなフレーズなのであえて改行してみますが、

 それは「感動」ではなく「自己啓発」なんじゃないかと思うんですよ。

 それは「感動」ではなく「自己啓発」なんじゃないかと思うん、ですよ〜。

 わりとキャッチーなフレーズなので、ですよ。口調で言い直しましたけどね、これはもう、そうなんです、明らかに。このまとめを読んだ人のツイッターの感想とか色々読みましたけど「自分が生きる今日は誰かが生きたかった今日」的なコメントがね、もう、すっげえ多いんですよ。まあ、実際そうですよ。「自分が生きる今日は誰かが生きたかった今日」ですよ。でもそれって、このまとめ読まなくても知ってたことでしょ? 知ってたからいま言えるんでしょ?って話じゃないですか。これはもうね、明らかに置きに来てるわけです。こんなのは感動とかじゃなくて、ただの自己啓発なんですよ、実際。

 で、たぶん結婚してない自分だったら、それで馬鹿にしきって終わりですよ。勝手に自己啓発やってろよ、って。それはそれで正しいと思うんです。正しさを優先するなら、たぶんそっちが正解なんですよ。でもね、じゃあ、実際いま結婚してますよと。色々と迷惑もかけてきてますよ、それだけ二人で生きてきたし、そんでこれからも奥さんから愛想尽かされるまでは生きてくんだし。そうなったらね、自己啓発って、やっぱり大切なんですよ。愛を言葉で奮い立たせていくって行為は、絶対に必要なことだし、言葉は悪いけど、そのために使えるものは使っていくべきなんですよ。だから「感動」だろうが「自己啓発」だろうが、そんなの知らねえよって話なんですよね。「自分が生きる今日は誰かが生きたかった今日」は、陳腐だけど、やっぱり真理ではあるわけですよ。少なくとも、使える材料なんですよね、自分の日常において。

 自分は別に、このまとめを読んだ全ての人が感動すべきだなんてちっとも思わないし、むしろこのまとめを読んで泣かなかったであろう過去の自分を、ちょっと羨ましく思ったりもするくらいです。だけど、このまとめを読んだ人の感想で一番グッと来たのは、ツイッターの自分のTLで見かけた「嫁の弁当を作るという至福の時間へ。」ってフレーズだったりもするんです。正しさの、その先へ。31歳の涙を17歳のぼくは笑うだろうけど、だとしたら31歳のぼくは、あいつの頭を撫でてやる。あいつが「わんわん!」って言わなかったとしても。

 最後の最後に。
 吹石さんのご冥福を、心よりお祈りします。