映画「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」 〜少年による冒険譚に関するルール3項&歯ぁ磨けよ!〜

 映画「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」を見て、少年による冒険譚にはどんなルールがあるのかを把握する。おそらく原則、以下の3項ではないか?

 少年による冒険譚に関するルール第1項:少年の能力は極めて低いが、それをサポートする何かしらの装置が存在する。

「やつは今、NTTにいるんですよ!」

 この映画で言うところの「参謀」がその装置にあたる。それが小道具である場合もあるだろう(例えば「妖怪大戦争」で言うところの剣など)。原則的に主人公である少年は無力でなくてはならない。少なくとも映画を見る子どもたちと同じ程度に非力である必要がある。「参謀」が優秀であるという要素は、物語を進めるために必要なのではなく、主人公の少年が無力であるという設定のために必要なものである。

 少年による冒険譚に関するルール第2項:大人(特に親)は主人公が世界を救っていくことに気づいてはいけない。

「母さん……もう駄目かもぉ……。」

 少年による冒険譚にとって最も重要なこととは何か? それは、それが少年自身の物語であるということに他ならない。一言で言えば主人公の少年の成長を描く物語であり、さらに重要なのは、その成長は主人公自身によって成長だと認識されなくてはいけない。ないしは、主人公が自分の意志で選んだストーリー上の人間(例:おさななじみの女の子)によって成長だと認められなくてはならない。大人、特に親から認められるために少年の冒険はなされてはならない、絶対に。

 主人公である少年の目的は、「自分が世界を救うこと」それ自体ではなく、むしろ「自分自身が世界を救った自分自身になること」である。あるいは「スタンド・バイ・ミー」の少年たちの目的は「死体を見ること」ではなく、「死体を見た経験のある自分になること」である。それを決めるのは客観的な(=大人たちによる)評価ではない。あくまでも自分、あるいは自分が選んだ誰かが、主人公の目的の達成/不達成を決定するのだ。

 少年による冒険譚に関するルール第3項:世界と日常生活は同価値である

「えっ? まだ帰れないよ…。お誕生ケーキのロウソクも吹き消してないんだよ?」

 目指すべき目標が、世界を救う、などのどんなに大それたものだったとしても、少年ないしは仲間達は、普段の日常生活を引きずっていなければならない。そしてその日常生活で何か困難が起こった場合(例えば、招待を受けたお誕生会が抜けられないから世界を救いに行けない、などのアクシデント)、その困難は軽率に無視されてはならない。

 世界と日常生活は同価値でなくてはならない。なぜならば、観客である子どもたちは、映画のエンドロールとともに日常生活へ戻らなくてはならないからだ。だとすれば物語が伝えるべきは、日常生活より優先すべき世界があるということではない。むしろ少年による冒険譚が伝えるべきメッセージとはこうだ。

「少年少女各位! 君たちが今いるこの現実はとても素敵なんだ! だから頑張っていこうぜ!」

 結局のところ少年による冒険譚が伝えなければならないこととは、カトちゃんの言った「(ババンババンバンバン!)歯ぁ磨けよ!」に他ならないのだ。