映画「グーニーズ」 〜逆算、およびキャラクターを描くということ〜

 映画「グーニーズ」に限らずだと思うけど、単純なワクワク系のお話っていうのはやっぱり逆算だ。というか逆算でしかない。ゴールが設定されていて、そこには壁があり、その壁を乗り越える要素を伏線としてその前に貼っておく、という逆算の作業が全てだ。で、その作業がうまいこと入り組んでいたり、観客に気付かせない(=例えば、伏線自体がゴールであるかのように見せかけておく)っていうのが、いわゆる「良く書けた脚本」ということになるのだろう。

 マウスが古地図に書かれたスペイン語を読める、っていう点において貼られた伏線とか。あるいは、マイキーのキスシーンを描くためには女の子は少なくとも二人は必要だったりとか。その、ある意味では機械的とも言える物語上の装置を、いかにイキイキと描くかというのが、キャラクターを描くということなのではないか。つまりキャラクターを描くというのは、その登場人物の本来の人間性を描くということなどではまったくなく、物語上キャラクターに与えられた装置をそのキャラクターのアイデンティティとして愛をもって語る、ということに他ならないんじゃないだろうか。

 で、それはきっと大人向けとか子供向けとか時代とかには関係のない、普遍的な手法だろう。とは言え目的をどう設定するかっていうところはわりと変わる。財宝をもらったらお金持ちになるから立ち退きが救える、っていうゴールはやはり現在の大人たちには納得できない部分もあり(チャンクの家はあのフリークスを居候として迎え入れるほど懐が深いんだろうか?とか)、まあ今だったらコミュニケーションとか親子・家族とかって要素が入ってくるのが時代的なベタってことなんでしょうね…。おそらくは。あとは愛とか。

 ただ、脚本としてのゴール、逆算もありつつ、「ピタゴラスイッチみたいなトラップってかっこいい!」とか、「喘息の薬がタバコ的な小道具として見えたらちょっとオモロいかも」みたいな、根拠はないけどハートに突き刺さる何かしらの思いが至るところにちりばめられているのはやはり素敵だ。スピルバーグって、要は藤子不二雄なんだな、きっと。それはそうと、この映画で唯一涙したのが、大団円にてデータの父親がデータに語ったこのセリフだった。

 お前はパパの最高傑作だ

 物語上の装置だったアイデンティティが、物語としてうまいこと表現されるこの瞬間こそが、物語に身を委ねる我々の幸せなんだと信じる。「うまいこと言いますな」ってなもんで、これは落語のサゲとなんら変わりない快感である。目的とか逆算って言葉だけだと小賢しく聞こえるかもしれないが、それって俺らの人生も別にそう変わらないわけで、こういうカタルシスが人生の中でも起こってほしいって思うからこそ我々はわざわざお金を払って劇場に足を運ぶのだろう。

 物語を語るということは、人生で語られるべきカタルシスを語るということであり、そのときカタルシスは語るシスであるだろう。