テレビドラマ「銭ゲバ」が良い仕事をしすぎてて感激せざるを得ない

 毎週土曜日よる9時より日本テレビ系列で放送されているドラマ「銭ゲバ」を第一回から見ていて、そのあまりの良い仕事っぷりに感激せざるを得ないためにレビューせざるを得ない。相沢は普段ほとんどテレビドラマという奴を観ないが、「銭ゲバ」はちょっとべらぼうに面白すぎる。原作であるジョージ秋山先生のマンガも無茶苦茶に面白いと思うが、ドラマも原作に負けず劣らずの大人の仕事っぷりを見せつけていて格好いいぜ!

第一話「愛をください…金のためなら何でもするズラ!!」

 色々と最高だったんだが、ドラマを観る前に原作を読んで予習していた自分としては「三國造船の令嬢である緑から幼少期に拒絶された」っていう風太郎の過去のエピソードを捏造した脚本に対して、頭を殴られるような衝撃を受けた。これはすごすぎる! 一体何がすごすぎるのかと言えば、原作であるジョージ秋山先生のマンガはこれはもうマンガとしてたいへん面白いんだけど、マンガだし、さらに言えば描いてる人も描いてる人だから、細部に関してはわりとご都合主義というか、えっ、何で?っていうようなツッコミどころはよくよく読むと多々あったりする。

 特に風太郎が青年になってからの物語の導入となる、大企業の社長の家に入って社長に気に入られるっていうところの原作はまさにそうで、風太郎が数ある大企業からなぜこの企業を選んだかっていう描写は特になされていない。わりと普通に、たまたま出会った社長の車にひかれる、的な描かれ方をされている。まあマンガだったらはっきり言ってこの辺りはスルーされる部分だ。なぜならマンガの場合、この時点ですでに完全に主人公である風太郎に感情移入しているというか、風太郎の物語として読んでいるから、なぜこの企業なのかっていう理屈がなくても、風太郎の行動とその行動原理に矛盾がなければ特に気持ち悪さを感じずに読めるんだと思う、たぶん。完全に思いつきだけど。

 でもテレビドラマの場合だとそうはいかなくて、誰か一人の物語として観るというよりは、むしろ一つの大きな物語、色んな人の色んなエピソードを編集して抽出した大きな物語として観るから、その編集や抽出に対する納得のいく理由が必要になるんじゃないかと思う。言い換えれば、マンガの場合だと今この現時点から未来に向かっての物語が語られていくのに対して、テレビドラマの場合だと物語上の時間軸のどこか一点があって、そこから過去を語る、あるいは過去を語り得るという形で、語られるべきエピソードが積み重なって行くのだおそらく。さらに言うならこの違いは紙や映像といった媒体の違いから来るものというよりはむしろ、物語の体感速度をユーザーが決められるかどうか、つまりマンガは読者が読む速度を決められるけど、テレビドラマの場合はすでに出来上がった作品の時間に応じて視聴者が観ることを強いられる、という点から来ているのではと踏んでいるが別にそんな難しい話がしたいわけではない。

 話を戻すと、たぶん原作のまま映像化されていたら、あそこの部分はかなり無理のあるというかつっこまれる可能性の高い部分だったことは間違いない。なんで数ある大企業の中からその企業なん?という、原作にその理由は描かれていない。相沢が感激をおぼえたのは、そこに理由がないこと、言い換えれば物語としての理由を付け加える余地が残っていることに脚本の人が気づき、実際に幼少期の風太郎と緑のエピソードという形で理由を捏造してしまうというプロの仕事を見たからに他ならない。これがプロの仕事ですよ皆さん! 奇跡を人工的に起こすために必要な、人間として、職業人としての努力というか気配りというか仕事がそこにはあった。これはもういま思い出してもぞくぞくする。才能とかセンスなどではなく、努力とプライドでしかなし得ない仕事をするという、それがプロのプロたる所以なんですよ!

 上記の風太郎が三國造船を選んだ理由と同様、風太郎の傷に対してその原因を父親の暴力にしてみたりとか、お母さんが死ぬという事実に対してお母さんは風太郎に嘘をついて薬を飲んでなかったって切ない話を捏造してみたりとか、荻野宏を撲殺するというエピソードに対してその撲殺に使ったバットを荻野宏自身から風太郎にプレゼントさせてたりとか(書いててなんだがこれはもしかしたら原作にもあったかもしれない)、あらゆる点でちょっとすごすぎた。第一話を観終わって、以上のプロの仕事っぷりに感激を受けた時点で、相沢はもうこのドラマには最後まで付いていくことを決めていたのだった。

第二話「愛は金で買えるズラ!!」

 このサブタイトルはいまwikipediaで読んだものを書き写しているんだが、そんな話じゃないんじゃないか?と思うがまあいい。船上パーティーでの腕時計をめぐるスリリングっぷりには興奮しっぱなしだった。そもそもこのエピソード自体原作にはないわけで、ただこのエピソードみたいな衝撃的な事件でもないと茜が風太郎に心を奪われるっていうのも絶対に不自然だよなあと思うとやっぱりすごいよ、ドラマの銭ゲバ。腕時計を船から捨てるところは、茜の目の前では腕時計を捨てたフリをしてたけど実はポケットに隠していて石を捨てただけズラ、あとで腕時計を売って一石二鳥ズラ、って流れになるんじゃないかとちょっと期待してしまったがそのあては外れた。なので、まあ腕時計を売ったところで足がつくかもしれないからここは捨てておくズラ、こんな時計なんて近い将来いくつでも買えるズラ、っていう風太郎の理屈を勝手に捏造してみた。面白いものはこうやって受け手が作品の描かれていない部分を捏造できるから良い!

 一番衝撃的だったのは、三國家の三人のやり取りをドアの外で聞いてた風太郎が笑いをこらえきれなくなり、その場面をお手伝いさんの春子が目撃するシーン。その前あたりから、どうなるんだどうなるんだ、って音楽も併せてものすごく煽っているところなわけだから、そうかそうかこの時点では風太郎の勝利でハッピーエンドで次行くんだなって思わせといて一転春子の顔、えーっ! ここで伏線を貼るの!? ちょっと手を叩いて興奮してしまった。これがタダで手に入るっていうのはすごいよ、よくよく考えると。

第三話「罠!美しい心が欲しいズラ」

 第二話あたりから特にそうなんだけど、風太郎というか松山ケンイチのかわいさがあまりにも常軌を逸していて、なんというかかわいさが爆発している。まったりした優しいかわいさではなく凶器のような攻撃的なかわいさであり、体力のない老人や病人だったらかわいさで殺せるんじゃないかと思うほどであり、そりゃ茜じゃなくても心を奪われるよ! そして週を追うごとに負けずに増していく茜のかわいさ。茜が不幸になるのは正直哀しすぎる。緑の世間知らずな感じもすごく良いし、定食屋のおかみであるりょうはキュートだしで、出てる人に対してまったくストレスを感じないのはすごいと思う。椎名桔平は誰も殺さないんだったら俺が殺す。

 病室から出てきた風太郎に一番に駆け寄るのが緑、っていうところがまた緑のデリカシーのなさと茜の無力さを感じさせる。本当、緑はそういうとこあるよ。茜の緑に対する目つきも何とも言えず良い。金持ちのボンボンである白川が貧乏人を軽蔑する金持ちのステレオタイプを演じていて、普通の作品だったらこれは物語として否定される意見なんだろうけど、でも実はやっぱり白川の意見のほうが正しいっていうのもよくよく考えるとすごいな。

 今回気づいたというか今後気にしていきたいのは、定食屋の必然性だ。あまりに暗い話になるからこういう救いのあるコミカルな場面も入れてるんだろうなぐらいにしか思ってなかったんだけど、風太郎にそっくりな失踪した兄っていうのが強調されていて、ものすごく気になる。原作でもその人物に応じるキャラクターっていうのはいるんだけど、確かに物語上いちおう重要な役回りとは言え、細かく描かれたり単体で重要なエピソードを持っているキャラクターではないので、これは間違いなく膨らませてくると思う。どうすんだろ。やばい。これは楽しすぎる。

次回以降について考えていること

 定食屋の兄貴をどうするんだという点も気になるが、個人的にいちばん気になっているのは、原作では描かれていた、風太郎の緑に対する恋愛感情というのをどうするのか?というところだったりする。原作だと風太郎が生まれて初めて本気で好きになってしまった人というのが緑であり、でもある事件のさなか緑が自分の心の中で思い描いていたような理想的な存在ではないということに風太郎が勝手に気づいてそこからまた結構な展開があるんだけど、これは果たしてどうするんだろうということに非常に興味がある。

 原作だとわりと普通に風太郎は緑のことを好きになってしまうんだが、たぶんドラマだとそう簡単に進むとは思えない。少なくともいま現在、風太郎が緑のことを好きになる理由は一つもないと思う。もし風太郎が緑を好きになるんであればそれ相応の理由となるエピソードが描かれるのは間違いないが、でもどうすればそれが可能になるのかがまったく思いつかない。というか、銭のためならなんでもするズラ、っていうのを風太郎の基本設定としてる以上、風太郎が誰かを好きになるっていうのは、ジョージ秋山先生にケンカを売るわけじゃないけどおかしな話なんだよどう考えても。それは物語を根底からひっくり返してしまうことになりかねない。

 風太郎は原作だと、緑のほかにもう一人、ある女性のことを好きになる。その女性を好きになったことが発端となって起こるすごく切ないエピソードがあるんだけど、ただそのエピソードとともに第一部は終了する。原作の銭ゲバは、実はその第一部が終了した時点で終わっていても全然良いマンガだとも思う。で、その場合だと風太郎が初めて人を好きになるっていうのはあり得る話で、要はずっと銭だ銭だと言っていた風太郎だけど最終的に愛の尊さに気づきました、めでたしめでたし、でその後にどんでん返しがあるかないか、ということになるから物語として成立してると思うんだけど、物語の途中で風太郎が誰かを好きになるってことになるとちょっと話は違う。でも緑のことを好きになることで生まれるエピソードも原作ではものすごく沢山あって、ここをドラマでどうするんだろう、っていうようなことを考えるのがものすごく楽しいです。

 尋常じゃない長文になってしまってたいへん恥ずかしい気持ちでいっぱいだが、これだけの文字数を使って相沢が伝えたかったことはただ一つ、毎週土曜日よる9時からのドラマ「銭ゲバ」は無茶苦茶面白いからみんな観たほうが良いズラ!ということです。