相武紗季とプロレスとアイドルと天津(見てもいないものを語るということ)

 相武紗季が出てるアットホームのテレビコマーシャル、映像は相武紗季が喋ってるんだけど声だけルー大柴とか阿藤快に差し替わってるあれが無茶苦茶かわいすぎて正直まいってるわけよ。

http://www.athome.co.jp/athome/cm/cm_list/

 もちろん相武紗季自体の外見的な可愛さは、この映像だけでも伝わる。でもやっぱり、誰だか知らない美少女がこの相武紗季の役として出てきたとしても、ここまで心を掴まれることはないんじゃないか。今までの相武紗季のあれこれ、特に声と喋り方っていうのをこっちが知っているからこそ、この手法は有効なんだと思う。だって上のリンク先の映像を見てたら、相武紗季の声が聞こえるんだもん。こんな風に、こんな声で喋ってるんだろうなあとかぐらいは無理に意識することなく想起されるし、さらに収録現場での相武紗季の奮闘する様子とか照れてたり笑ってたりする様子もたやすく想像できる。この感覚は、みんなも共通なんだろうか?

 程度の差はあれ共通だとして話を進めると、これは自分がプロレスとかアイドルとかに求めてるものにすごく近いんだと思う。自分がなんでプロレスとかアイドルとかっていうジャンル、あるいはお笑いもそうなんだけど、ジャンルそのものに惹かれるのかっていうと、やっぱり色々想像させてくれるからなんだよね。ものすごく無駄な想像を。舞台裏の様子とか、人間模様とか、そこに携わる人がどんなことを考えてどう動いてるのかとかを想像させてくれるっていうのがプロレスでありアイドルでありお笑いっていうジャンルなんだと思うわけですよ。

 だから最近プロレスのことばっかり書いてるのにあれだけど、俺はプロレスなんて全然好きでもなんでもなくて、そういう楽しみ方が好きなんですよ。それは別にジャンルによらなくて、確かにプロレスやアイドルやお笑いはその楽しみ方に特に向いているジャンルだと思うけど、別に他の何だっていい。とは言え人間とか生き様とかがすっと感じられるジャンルって今現在他にあるだろうかって考えると、まあ宝塚とか? あとトキワ荘とか。そんなんはとても良いよね。で、そんなんはたぶんジャンルによらず新たに作ることができるものだからものすごく開いた世界であり、みんな頑張ろうぜって思うわけだけど、まあそれは別の話だ。

http://blog.livedoor.jp/k_sfv8539/archives/51405040.html

 爆笑レッドカーペットに天津木村が出たらしいんですよ。見てないんだけど。で、見てないうえに、別に天津っていうコンビは好きでも嫌いでもないぐらいなんだけど、にも関わらず、この書き起こしを読んでものすごくぐっとくるしちょっと泣いちゃうのね。もちろん最後の画像キャプチャのところで。天津の二人の仕事量の差とか、立ち位置の模索とか、心境の変化とか、そんなのを勝手に想像してそれで泣く。見てもいないものをさもあったかのように物語にしていく、自分の中で。

 で、本当に感動したり感激したりするものっていうのは、その勝手に自分の中で想像して作った物語が、自分の目の前で起こるリアルな光景で終結する、っていうその美しい瞬間なんだと思うんですよ。想像の物語が、最後の最後で現実から保証される瞬間。それが天津木村のぐっと突き出した親指だったり、キッスアンドクライからマッスル坂井を呼ぶ鈴木みのるだったり。石川梨華がウンコをするのかどうかっていうのを色んな情報から想像して議論する人も、ステージの上で踊る完璧な石川梨華を見たら、ああやっぱりこの人はウンコをしないんだなってことが分かるわけじゃないですか? つまりはそういうことなんだと思うんですよね。

 見てもいないものを語るという行為の面白さと、そこで語られたものが現実によって保証されるという奇跡の瞬間こそが自分の求めるものであると、そんなことを思っている土曜日の午後です。