オートマティズム

 そもそもイズムというものがまず笑いの対象となるだろう。イズムゆえの偏狭さ、視界の狭さゆえの視線の強さってのは笑えるが、しかしそんなものはすでに古いのかもしれない……。という前提があって、先だってのガーナ戦後のオシム監督のインタビュー。

Q:選手のオートマティズムに対する評価は?
「私は結婚して40年になりますが、まだ家内との間にオートマティズムというのはないんです。それなのに選手はわずか2,3ヶ月でどうやってオートマティズムが生まれるというのでしょう?3日間のトレーニングを数回やっただけで、オートマティズムができるとお思いですか?しかしそれなしでいい試合をすることができないというのも事実です。

 この言い合いが面白く聞こえてしまうのは、私たち聞き手とオシムのあいだで「オートマティズム」の認識が異なるからだろう。これを「翻訳の笑い」と呼ぼう。「翻訳の笑い」は唐突な言葉が明らかな意味をもって言説に登場する、その笑いだ。たぶんオシムの中でオートマティズムという言葉はちゃんとこの言説において効果しているのだが、それを聞く私たちの中でオートマティズムという言葉は唐突であり、決してなじみ深くはない。だから笑えてしまうのであり「翻訳の笑い」のメカニズムとはそのようなものだ。

 そもそも「家内との間にオートマティズム」が生まれるのかどうかさえ、私たちは知らない。ただし「家内との間に」某かのものが生まれるということは知っている。親密さであり、生活であり、愛おしさであったり……。その前提を知ったうえで「オートマティズム」という唐突な言葉が登場する。親密さや生活や愛おしさと並列に「オートマティズム」は置かれるべきかどうか、その判断材料が私たちにはないから、途方にくれた私たちは笑うのである。

 だとすれば「翻訳の笑い」は全てのコミュニケーションに通じるものだろう。人と人が(あるいは人と物、物と物が)何かしらのコミュニケーションを取ろうとする行為、それはすべて「翻訳」と呼べるものである。そして「翻訳の笑い」とは苦笑であり、あきらめの笑いである。すなわち、誰かと完全に理解しあうことなど到底不可能なことだ、という諦観をもって私たちは笑っているのだ。