AM/FM

 全てのAMラジオリスナーは、言うが、全てのAMラジオリスナーは、FMラジオリスナーになることに挫折した者たちである。

 全てのAMラジオリスナーは、初めから望んでAMラジオリスナーになったわけではない。むしろ彼らも、FMラジオリスナーとなることを望んでいた。あるいはAMラジオリスナーであると同時にFMラジオリスナーである自分になりたいと願っていた。しかし彼はある地点でFMラジオリスナーとなることに挫折し(FMラジオはお洒落すぎるので)、ただ一つ残っていたAMラジオリスナーという道を選んだのだ。

 だからAMラジオリスナーの「AMはFMよりも面白い」という信念は、明らかに(それを彼が意識しているかしていないかは別にして)、自己弁護の側面を持つ。全てのAMラジオリスナーは、自らのFMラジオリスナーへの夢が破れたことを忘れようとして、あるいはそれを他者から必死に隠そうとして「AMはFMよりも面白い」(=「だから別に自分はFMを聞きたいわけではない」)という信念を自らの手で創り出す。それがAMラジオの閉鎖性であり、別に良いとか悪いとかではなくて一つの事実としてそうなっている。

(ただし上の議論は思春期に都会に住んでいた、という人間を前提としている。田舎に住んでいてAMラジオしか聞けなかったという人間は排除しているし、さらに言えばおっさんのことも考慮していない。おっさんはラジオをAM/FMで区別しない。おっさんにとってラジオはラジオでしかない)

 それは「AMラジオリスナーにとってAMラジオが面白い」ということをそのまま意味する。しかし「そんなAMラジオリスナーが聞いて面白いと思うFMラジオは存在しない」ということを意味するわけではない。「AMはFMよりも面白い」という信念を覆すほどの面白いFMラジオが存在すれば、AMラジオリスナーは、夢だったFMラジオリスナーになることが出来るだろう。

 だから問題は「面白いとは何か?」ということであって、お洒落であると同時に面白いもの、お洒落だけど面白いとか、お洒落だからこそ面白いとかではなくて、「お洒落」と「面白い」が同時に、お互い影響することなく独立に共存するものが出来ないだろうか? だがしかし本当に、「面白い」とは一体何なんだろう?

 AMラジオがテキストサイトであり、FMラジオがblogであるという言説だってここでは許されるだろう。しかしそんな議論に興味はないのであって、なぜならばそれは「面白くない」からなのだ。