オリエン/タルラジオ考察ならびに「新しい」について

 たとえば50年後にこの文章を読んだ人のことを考えれば彼(あるいは彼女)に対して優しくならざるをえないが、今は平成18年、西暦2006年であり日本の芸能界では「オリエン/タルラジオ」という名称のお笑いコンビがちょっと芽を出しつつある。本来「/」は存在しないが彼らに対してあまり良いことは書けないと思うので「/」を入れている。というのもこの文章ははてなダイアリーというブログサービスで書かれていて、そのブログサービスにはキーワードというものがあり、などと楽しい話はつきない。だから今、勇気をもって割愛しよう。

 さてオリエン/タルラジオについてだが、吉本興業の有料チャンネルや発売中のSPA!のインタビューを読む限り、彼らはスタンスとして「面白いことを言わなくても良い」という戦略を取っている(少なくとも相沢はそう認識した)。実際のところこれは信じがたい戦略である。「彼ら自身が面白いと思っていることが相沢にとって面白くない」という芸人さんなら分かるし、事実相沢にとってそういった芸人さんは数多く存在するのだが、そもそも「彼ら自身が面白いことを言おう/やろうと思っていない」という芸人さんは、おそらく彼らしかいないだろう。

 相沢にとって芸人さんという職業は、他のことが出来ない人間が仕方なく選ぶ職業だという認識があった。ここで言う「他のことが出来ない」というのは、能力が足りないから出来ないというのではなくて、「面白いことを言えないのならば死んだ方がマシだ」と思ってしまった結果によって「他のことが出来ない」言い換えれば「他の職業が選べない」のである。だから全ての芸人さんは、死なないために面白いことを言おうとするのだと、芸人さんとはそういった職業だとずっと認識していたのだが、オリエン/タルラジオはそうではない。彼らにとって芸人さんという職業は、数多くある選択肢の中の一つにすぎない。

 相沢はそのことに関してここ最近、もしかしたらそういった意味で彼らは新しい芸人さんなのかもしれない、と感じていた。彼らの(あるいは彼らの生き方の)是非はさておき、彼らの存在は「新しい」のではないか? と真剣に考えていたのだが、しかしやはり、そうではないだろう。オリエン/タルラジオにとっての芸人さんのあり方、それは非常にドライでアメリカな「金を生む職業の一つ」として芸人さんという職業をとらえるやり方は、確かに新しく見える。しかしそれは、実際のところ新しくもなんともない。それは単純に、今までなかった、というだけなのである。たまたまそういう考え方が今まで存在していなかっただけであって、それを「新しい」と言ってしまうのにはやはり抵抗がある。

 じゃあ「新しく見える」と「新しい」の違いとは何か? それは結局のところ、それを見た人間が「それはあるべきものだ」と考えるか考えないかの違いである。「新しく見える」ものとは、つまり「たまたまなかっただけ」のものとは、文字通りその世界に「たまたまなかっただけ」なのだ。だが「新しい」は違う。「新しい」は「そこになくてはならない」を必要とする。だから、それがたとえ見飽きたものであっても、それは「新しい」ものになりえる。私たちが「ああ、そうか! それは本来、そこになくてはならなかった!」と感じ、発見することができれば、それは明らかに「新しい」ものなのだ。

 だから「新しく見える」と「新しい」に関して何よりも重要なのは、それを見る私たち自身だ。オリエン/タルラジオの芸人さんとしてのあり方を「新しい」と感じるものもいれば(憶測だが楽天の社長とかはそう感じるだろう。それは彼の視線がビジネスに裏打ちされているからである)、「新しく見える」としか感じないものもいる(もちろん相沢はそう感じる。それは相沢の、芸人さんという職業に対しての認識に由来する)。だから「新しい」かどうかを決めるのは、常に自分自身でしかない。とここまで書いて、おいおい、だったら相沢は一体誰を「新しい」と思うのか?と尋ねられたならば、相沢は少し考えてからこう言うでしょう。「今の気持ちで答えるならば、この二つだ。メロン記念日と、レイザーラモン出渕誠さん」と。