転校生

古泉智浩「転校生 オレのあそこがあいつのアレで」
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 童貞マンガを描かせたら間違いなく日本で右に出る者はいないマンガ家、古泉智浩がこの作品で取り上げたのは「男女の性器が入れ替わる」という、単純だが見事な設定だった。描きようによってはテレ東で昼間やってるようなB級映画、なんか高校生がエスパーになってスカートをめくったりするようなお話になりそうなものだが、というかまあやってることはそれに近いっちゃあ近いんだが、それでもこのマンガはとても面白い。コメディとして秀逸。

 おそらく正しいコメディには、正しい手法が存在する。設定さえ定まってしまえば、きっと「その設定だとこんな展開で物語が流れなくてはいけない」というルールも同時に定まるのであって、そのルールを堅実に守ったコメディが正しいコメディである。もちろん正しいコメディだからといって笑えるわけではないし間違ったコメディが笑える場合もあるだろうが、ただこのマンガはあくまでも正しいコメディであって、それは今まで古泉智浩が隠していた、エンタメ適正を如実に表している。

 しかし「正しいコメディ」としてある程度の節度を守りながら進む物語において、至るところで童貞らしさがにじみ出てしまう部分が古泉智浩の素晴らしい点でもある。例えばこのマンガにおいて、登場人物の性格はかなり大きく変化していく。女性器を手にした男性は女性化し、肉体ではなく心を、愛を求めるようになるし、男性器を手にした女性は男性化し、肉体を求め、しかしセックスが終われば「めんどくさい」と呟く。

 ここで私たちは、明らかに「女性器を手にした男性」に惹かれていることに気付く。何故ならば、女性器を手にした男性の心理や行動が、まさに童貞をこじらせた男たちのそれだからだ。全ての男は、生まれもっての童貞である。その中にはあっけなく童貞を卒業してしまう者もいるわけだが、一部には童貞をこじらせてしまう人々がいる。古泉智浩のマンガを読んで感銘を受ける人間というのはきっとみんなそういった人間であり、それは相沢も例外ではない。

 全ての童貞はセックスを求めるわけだが、しかし童貞をこじらせた童貞は、セックスに信じられないほどの想いを込めて憧れる(「性の童」と書いて「憧れ」である)。そしてその憧れを、セックスそれ自体が満足させることは決してない。童貞をこじらせた童貞は、その童貞を捨てたときこう思うだろう。「えっ? こんなもんなのか?」と。夢に見たセックスとは童貞をこじらせた童貞が想い描いていたほど素晴らしいものではない。だから童貞をこじらせた元童貞は、愛を探す。愛を手にするためには、時間と手間がかかる。そしてその間、ある程度の猶予が生まれる。かつての自分の強い憧れを「こんなもん」にしないために、童貞をこじらせた元童貞はあえて辛い道を選ぶのである。

 「童貞」とは状態である。だが「童貞をこじらせた童貞」は一つの生き方である。古泉智浩のマンガとは、「童貞をこじらせた童貞」という生き方は楽しいものではないかもしれないがそう嘆くべきものでもないという証明であり、とても面白いと思います。