オオカミ少年

 「オオカミ少年」にて、精子の量が異常に少ないことが判明した南海キャンディーズ山里さん。しかし某ホームページにて精子勝負が行なわれているという話の中で「出場してみたら?」と言われ、

「ぼくが勝てる人はいるんでしょうか?」

 そして浜田さんは

「なんで出るつもりやねん」

 このやり取りは本当に可笑しくて、そして美しくて、一言で表すならば素晴らしい。何故ってここには人と人との「信頼関係」があるからであって、言ってみれば全てのボケとは信頼によって成り立っている。かつて萩本欽一師匠はこう言った。

「笑い」は相手がいて、初めて生まれるんだよ。相手を信用しないと笑えないよ。

 萩本欽一師匠は「神様が見られるように稽古の最中は窓を開けておけ」とおっしゃるほどのロマンチストではあるが、しかしこの言葉は笑いを商売にした男としてきわめてリアリスティックな視点からの台詞であるように思う。相手を信用しないと笑えないというのは勿論だし、そうであるならば当然相手を信用させないと笑わせられないということになる。だから結局のところ人を笑わせるということは、いかにして相手を信用させるかという点に尽きる。
 信用とはすなわち愛だ。そして人は自分が愛されていなかったとしても、誰かを愛する人間を見ればその人間を愛するように出来ていて、それは結局のところ愛とは一つの上下関係を強いるカースト制度なのかもしれないが、しかしそれはそう悪くはない制度でもある。舞台の上の誰かが自分以外の客に向けて愛を表明していたとしても、私たちは「おいおい誰に愛を向けてんねん」と笑うことは出来るし(それは例えば友近さんやほっしゃん。さんのようなニッチなネタなどだ)、愛はそれが愛であるならば誰に向けられていたって良い。
 愛は愛であればそれで良い。笑いというのは結局はそういうことだし、そしてそれはハロープロジェクトだってそうだし、私たちは私たちが愛されることを望んでいるわけではない。私たちはそこに純粋な愛が存在することだけをただ求めていて、その愛がつんく♂に向けられたものであれ、あるいは「ファン」という不特定多数の概念に向けられたものであれ、そんなことはどうだって良くて、愛が私たちの見える場所にありさえすれば本当はいくらだって幸福になれるのだ。