柴ちゃんと杏ちゃん

 下の日記に付け加えることになるが、今日あるヲタ友と会いこんな質問を投げかけられた。皆さんならどう答えますか? その質問とは、以下の通りである。

 次のうち、どっちを選ぶ?
A 外見が柴ちゃんだけどココロは南波杏ちゃん
B 外見が南波杏ちゃんだけどココロは柴ちゃん

 確かに難問だ。難問だがしかし、相沢はBの「外見が南波杏ちゃんだけどココロは柴ちゃん」を選んだ。その理由は本当に単純であり、要は愛するチカラのポテンシャル問題である。下で書いた通り、人が誰を愛するのかは特に問題ではない。そこに愛があるならばその愛は誰に向けられていたっていいのだが、しかし誰が愛するのかは問題であり、愛とは一つの能力である。川本真琴さんが歌った通り愛には才能があると思うし、その才能を私たちが認知しているかどうかが問題である。
 柴ちゃんは愛の才能に溢れている。それはまったく、呆れ返るほどの、見ているこちらが羨ましくなってしまうほどの愛の才能である。言わせてくれ。俺はメロン記念日が好きだ。それはつまり、メロン記念日の愛の才能を、俺は身体が痛くなるほど骨身に染みて知っているからなのであって、そして全ての愛とは隠されるべきではなく常に暴かれているべきなのだからメロン記念日をいまこの2005年の夏に体験できないというのは信じがたい搾取であり最悪の事態だと言える。と、信じる。天てれに期待したいのはやまやまだけど、そこに愛があるのに愛を味わえないこの切なさを、一体どんな毛並みの犬に食わせたら良いのだ?