アナーキズム

アナーキズム浅羽通明
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次いで、明治後期、大本教へ入信してなおの娘婿となり、聖師とされた出口和仁三郎は、大正十年、昭和三年の二回、世の終末=大災害の危機とそれを乗りこえてのユートピア到来を予言する。殊に昭和初期には自ら下生したミロクを名告り…

 このWOTA臭さがそそる。「ユートピアが来ますよ!」と叫ぶ出口(言うなればでぐっつぁん)と「娘。のエースはやっぱり高橋なんですよ!」と叫ぶWOTAのどこに違いがあるというのだろうか? 出口とWOTAに通じるいじらしさ、ある種の可愛さは、その強い恋心と恋心の満たされなさに由来する。「柴ちゃんが泣いていたらどうしよう!」と不安がるという余計な行為(つまり恋)こそに、いじらしさの神は宿るのだろう。ではなぜWOTAは、我々は、恋を選択するのだろうか?

私はなぜ今ここにいる「私」でしかないのか

私が帯びている固有性(略)の全てですら、互換可能なものとしてしまうこうした見方からは、永井の意図にかかわらず生活者である自分に重きをおかない思想が派生しやすい。

 私が柴ちゃんに恋をしているとして、それはなぜ柴ちゃんなのか? なぜ柴ちゃんでなければならなかったのか? 言い換えるならば、なぜ私の中の柴ちゃんは、私が彼女に恋心を抱くことを許したのだろう? 恋は私と柴ちゃんのあいだでの関係性には成り得ていないにしろ、少なくとも「私」と「私の中の柴ちゃん」とのあいだは恋が繋いでいるのだ。「私の中の柴ちゃん」は、「私」から恋のまなざしを向けられていることを知っている。ではそれを許すものとは何か? なぜ彼女は私からの恋を迷惑がらないのか?(恋に臆病な私たちは、私たちの恋が他人に迷惑をかける可能性を捨てきれない!) 「私」に何かがあるからこそ「私の中の柴ちゃん」は「私」からの恋を拒絶しないのだろうか?

 ただここでもう一つの声が聞こえる。「違うよ、柴ちゃんは優しいから、誰かに恋されることをいやがらないだけだよ」 その可能性はある。確かに、現実の柴ちゃんはともかくとして、私の中の柴ちゃんはあまりにも優しい。だがそれならば、なぜ私の中の柴ちゃんは優しいのだろう? どのような理由で私たちは、私たちの中の柴ちゃんを「優しい」と判断しているのだろう? もし優しいのであれば、どの程度彼女は優しいのだろう? 私の顔が火傷でただれ、空気で感染る病気にかかっていたとしても、彼女は私の恋を許すのだろうか? あるいは、美貴様に恋する人々は、どうだろう? 彼の中での美貴様は優しいのだろうか? りかちゃんに恋する人々はどうだろう? 彼の恋は、彼の中のりかちゃんから「大の大人なのに…」と迷惑がられないのだろうか?

 恋はわからない。そして、だからこそ素晴らしいとも思えないのである。以下、興奮した部分。

そして連中の人格が今の連合赤軍の人格に見られるような画一的でないところが又面白く、一生不犯で初恋の女を想い続けて死刑になった者や、最下級の女郎に火のような恋を燃やし終身刑になった梅毒者や、母を想う歌を書き続け涙を流しながらテロを敢行した若者等々全てが特異な心情の持ち主なのである。

天皇を殺そうと思っていたのが忽ちその矛先を首相の原敬に変え、変えたままずるずるになったり、朝鮮までピストルを買いに行って朝鮮人にまんまと五万円をとられたり、資金作りに銀行の出張所を襲い、人一人殺して奪った金が七十五万円だったり、大杉復讐の元凶を憲兵司令官と見て狙撃した弾が空砲だったり…

やりてえことを やりてえな わッ
てンで カッコよく 死にてえな ぱッ
んぱ んぱ んぱ ずんぱぱッ
生きてる気分になりてえな わッ
てンで イキがって 生きてえな ぱッ