エゴイスティックについて

 今売ってる週刊SPA!杉作J太郎さんのインタビューで、後藤真希さんに関する言及。

 後藤真希さんがその映画のクライマックスで包丁を持ってキャベツを刻んでたんですよ。僕に言わせれば切るものが違うだろうって……。
(中略)
 彼女が映画で刃物を持ったら切るべきなのは食材じゃなく悪人なんですよ。

 J太郎さんは熱狂的な加護さんWOTAでありながら、同時に非常に倫理的な生き方を自分に求めている点が非常に面白いし、また信頼のおけるところでもある。加護さんを熱狂的に見つめながらも、そういった自分をもまた見つめている。たぶんWOTAの中でも最もオドリストから遠い部分にJ太郎さんはいて、ということは全ての人間の中で最もオドリストから遠い存在でもあるということだ。何故ならば、WOTAでない人間こそ、たやすくオドリストになる存在なのだから(ここで何に向かってオドるのかは人それぞれだ。例えば人はたやすく資本主義にオドるし、ボビーはムルアカに向かってオドった)。

 で、前掲のJ太郎さんの発言であるが、この発言の面白いところは実はこの発言をする直前、J太郎さんは「最近の映画で描かれる優しさはエゴイスティックなものばかりだ」と批判的に発言しているのである。その発言があった直後、前掲の非常にエゴイスティックに思える発言がされている点に注意されたい。そう、「エゴイスティックに思える」と書いたが、「後藤真希さんは包丁を持ったら悪人を切るべき」という発言は非常にエゴイスティックに見えて一切エゴイスティックではない。

 問題は「エゴイスティックとは何か」という点であり、だから「エゴイスティックな優しさとは何か」を私たちは考えなければならないのだが、それはつまり、優しさの主軸に主人公が存在しているという種類の優しさである。主人公でなかったとしても、私たちが自分たち自身を投影する登場人物が主軸に据えられた優しさこそが、エゴイスティックな優しさである。エゴイスティックとはつまり、「主語つきの」という言葉で置き換えられる。

 一方「後藤真希さんは包丁を持ったら悪人を切るべき」を考えれば、この意見は非常に個人的なものだし後藤真希さんにはそんな命令をされる謂われはない。だがそれでもこの意見がエゴイスティックでないのは、そこに主語が存在しないからである。それは単純に、一つの想起されうる世界でしかない。だからもしもJ太郎さんの発言の通りに「後藤真希さんは包丁を持ったら悪人を切るべき」だとしても、悪人を切らなかった後藤真希さんが悪人を切らなかったからという理由で罰せられないのであれば、この世界が「後藤真希さんは包丁を持ったら悪人を切るべき」世界でなく「後藤真希さんは包丁を持ってキャベツを刻んでも良い」世界であったとしてもいいわけで、つまり後藤真希さんへの罰が存在しない以上、「後藤真希さんは包丁を持ったら悪人を切るべき」という発言はまったく無価値である。無価値というか、この世界が果たして「後藤真希さんが包丁を持ったら悪人を切るべき」世界なのかどうかを確かめる方法はそもそも存在しないのだ。

 だから後藤真希さんへの罰が存在しないのであれば、この世界は後藤真希さんがどうすべき世界なのかを確認することは出来ない。そしてもちろん後藤真希さんへの罰などは存在しえない(もしも「後藤真希さんへの罰」が存在するとしたら、それはすでに「後藤真希さん」ではない。後藤真希さんとはそれほど特殊な存在である)。よってこの世界は後藤真希さんがどうすべき世界なのか私たちにそれを確認する方法はないわけで、だったらどうすれば良いのかと言えば、それは信じればいいわけです。というかただただそれを信じるよりほかないわけで、この世界は「後藤真希さんは包丁を持ったら悪人を切るべき」世界であると信じ続けることこそが、ただ一つのエゴイスティックでない愛の形であるということになりましょう。