うまいということ

 歌がうまいっていうのは一体どういうことなのだろうか? 全く結論の見えないうちから書き出してしまった。しかし歌がうまい人、というのは明らかに存在していて、例えば松浦さんだとかっていうのは非常に歌がうまいなあ、と思う。エルダークラブでもそう思った、というか正直ダントツの歌唱力であった。それは例えば布施明さんだとか松山千春さんだとかの歌をきいて、ああこの人は歌がうまいなあ、というぐらいの高い水準にあった。

 ただそういったこととは別の次元に、好き、という感情が存在する。自分で言うと布施明さんの歌はうまいと思うし好きだが、松山千春さんの歌はうまいと思うが別に好きではない。だから歌がうまいから好きというわけではないし、逆に歌が下手でも好きという感情を抱くこともできる。例えば初期の星井七瀬とかはそうであった。「歌がうまいなあ」という感想と「この人の歌は好きだなあ」という感情はまったく別個に存在する。

 ただ、好きか嫌いかという感情は完全に個人の思いに由来するわけだが、歌のうまさというのは客観的に評価される。言い換えれば、歌がうまい人の歌は、誰が聴いても「歌がうまいなあ」と思われるということで、これはちょっと驚くべきことであると同時にわけが分からない。なぜ「歌がうまいなあ」という評価が万人に共感されるのだろうか? それは「歌のうまさ」という評価の基準が万人で同じか、もしくはかなり似通っているということの証であるはずだが、何故そんなことが起っているのか? 「歌がうまいなあ」とは「足が速いなあ」とは違い、数値化して比較できない評価であって、その評価は全て私たちの直感的な判断に由来するものなのに、なぜ評価の基準が同じになってしまうのだろうか?

 私たちが「歌がうまいなあ」と感じるときの評価基準はさまざまで、例えば音程を外さないだとか声がよく出ているだとかビブラートがかかっているだとかするわけだが、それらの基準が同じなのはどうして? 逆に「歌が下手だなあ」という判断も万人で同じなのはどうして? だとすれば私たちの中で、理想としての「歌がうまい」は想定されているのか? あるいは「歌がうまい」の評価基準が一緒ならば「ダンスがうまい」の評価基準はどうなのか? 好きか嫌いかという基準の外に客観的な評価基準を持ち込めるということはそもそもどういう原理がはたらいているのか?

 というようなことを考えて、冒頭にて結論が出ないまま書き出してしまったと申し上げましたが、結論は結局出ませんでしたので後日に持ち越させていただきます。本日はありがとうございました。申し遅れましたが、あけましておめでとうございます。