和田マネの台詞

 ダイアリーすらマメに書けないやつに仕事がきちんと出来るわけがないだろう。

 QJの和田マネ日記より抜粋。和田マネはこうやって安めぐみを叱ったそうであり、これは確かに真理かもしれないなとは思うが、こんなに独りよがりな台詞もないのではないか? この台詞を聞いて「ダイアリーと仕事は関係ないのでは?」と思う人間に対してこの台詞はまったく意味がないし、この台詞を聞いて「その通りだ!」と思う人間ならばそもそもマメにダイアリーを書いているはずなのだ。だからいずれにせよこの台詞には価値がないことになる。真理ではあっても価値のない言説は存在する。
 しかし、自分で書いておいてなんだが「ダイアリーすらマメに書けないやつに仕事がきちんと出来るわけがない」というのは果たして真理なのだろうか? 何だかよく分からない。問題は「ダイアリーすらマメに書けない」という事態が何を意味しているのかということだ。それはおそらく、自分で決めたルールを守れない、ということを意味している。だったら別に、それは「ダイアリーすらマメに書けない」でなくてもいい。「禁煙すらろくにできないやつに仕事がきちんと出来るわけがない」でも成立はする。
 というかもっと言ってしまえば、「〜〜すら出来ないやつ」という主語さえ設定してしまえば全て成立する話ではないのか。「自分の尻から出た糞すら流せないやつに仕事がきちんと出来るわけがない」のだし「年中おむつを外せないやつに仕事がきちんと出来るわけがない」のである。だから結局、和田マネの言いたかったこととは、「仕事の出来る人間になりたければ簡単なことを出来るようになりなさい」ということである。そこでたまたま安めぐみがダイアリーをマメにつけていなかったというだけの話だ。
 だったら和田マネは大したことなど言っていなかったのかというとそんなことはなく、「ダイアリー」と「仕事」を結びつけたこと自体が彼の手腕だ。この絶妙に離れている事実を具体的にくっつけることで、台詞は台詞として成功する。全ての台詞に台詞としての良し悪し、あるいは美しさといってもいい、があるのはそういう理由であり、それはまた全ての日記がそうなのであって、だから美しい日記とはおしなべて具体的である。美しい日記とはイメージの世界に存在するのではない。具体的な事象の重ね合わせから読み手が新たなイメージを捉え、そのイメージに没入することのできる日記こそが美しい日記である。
 そして全ての日記がそうであるのならば全ての世界がそうであるべきで、何とすれば「日記」と「世界」は常に可換なのだから。だとすれば、それ自体が美しい世界などは存在しない。桃源郷ユートピアは美しい世界などではない。世界が常にそのままの世界として存在する世界の中で、私たちがいくつかの具体的な事象を取捨選択し結びつける、そこで生まれたイメージこそが美しい世界と呼ばれ得る世界だ。この世界で起る全ての悲しく切なくやるせない具体的なものや事柄を何か別のものや事柄を結びつけ、より美しい世界として私たち自身が認識するという手法、それはまったく現実逃避などではない、むしろ現実に対しての(愛にあふれた)戦いである。私たちの両目は常に開かれているべきなのだ。