Berryz工房を聴くことは罪になるのか?

 Berryz工房を聴くことが罪になるのか、ならないのか、それが知りたいのです。

 最近は物騒な事件が多く、本当に弱い者がよく殺されるものでたまらんなと思うわけですが、幼女をさらって殺すなんていうのは明らかに罪だということくらいは分かります。何故ならば自分の娘がさらわれて無惨に殺されるのを見たい人間なんてごく少数なのだから、それは社会的に見て罪でなくてはいけない。幼女をさらって殺すという行為は罪でなくてはならず、幼女をさらって殺した人間は罰せられなくてはならない。

 しかしこれはあくまでも「殺される側」の言い分でしかなく、重要なのは幼女をさらって殺すというのが「殺す側」から見て罪かどうかということです。確かに私たちの多くは幼女をさらって殺したりはしないでしょう。これから先わたしが何年生きるかは分かりませんが、おそらく私は幼女をさらって殺さないでしょう。しかしもしも自分が「殺す側」にまわったとして、そのときにそれが罪だと認められないのであれば、それは罪ではない。たとえ罰せられたとしても、それは罪のない人間に向けられた罰です。

 だから幼女をさらって殺す人間がそれを罪であると認めるかどうか、それが常に問題なのです。社会的に罰せられるかどうかは法律が決めることですが、それを罪と認めるかどうかは「殺す側」の人間です。「殺す側」の人間がそれを罪だと認めなければ、それは罪ではなく、ただの幼女誘拐殺人事件にすぎません。

 もっと言ってしまえば、そこに事件らしい事件がなかったとしても罪は存在し得る。例えば自慰行為の後におぼえる罪悪感。あるいは、もしも自分の母親や自分の娘と性交渉を結んだとした場合、仮に相手が歓んでいたとしても私は罪の意識を感じるでしょう。そこには、社会的に見て損をしている人間などはいないのだから、罪である必要はない。しかし私が罪の意識を感じてしまっているのならば、それは明らかに罪だと言えます。

 だとすれば、何が罪で何が罪でないのか? 私はどこで線引きをすべきなのか? しかし例えば「出産目的ではない性行為は罪である」としたら避妊は罪なのか、というかアイドルヲタなんてものはそれ自体が罪になってしまうのか? だとしたら「愛」は罪なのだろうか? ロリコンは存在そのものが罪であるべきで顔を隠しながら生きていかなければならないのだろうか?

 もちろんアイドルヲタや愛やロリコンが罪である理由はない。しかしそれと同じ程度に、罪でない理由もない。だとすれば本当は私たちは、Berryz工房を聴くたびに罪の意識をおぼえなくてはいけないのかもしれない。「私たち」にとっての「Berryz工房を聴く」という行為と、「殺す側」にとっての「幼女をさらって殺す」という行為のどこに差があるのか、それとも差なんてないのか、そういうことを考えれば考えるほど恐ろしくなります。