体験を描写するという行為について

 体験を描写するという行為について考えています。

 というのも今現在相沢は、とある人のメロン記念日ファンクラブツアー体験談が書き上がるのを心待ちにしていまして、まあその人が出席したメロン記念日ファンクラブツアーに相沢は出席しておりませんでしたから相沢としては想像することしか出来ないのですが、しかしどう考えたってそれは素晴らしい体験だろうと思うのです。それはまあ、そうだろうと。そして現在その人の体験談は途中で止まっているので、早く読みたいなあ、と思っているわけです。

 このように、誰かが「体験を描写する」のを待つ状況というのは、私たちの生活でよくある風景です。特に自分がしていない体験をその人がしたという場合には、こちらとしてはその人の描写を読み取ってその体験を想像するしかないのですから。それで「ああ、俺も行ってりゃ良かった」とか「行かないで助かった」とか、そういうことを思いたいわけです。フジロックがどうだったとか、地震の被災地がどうなっていたのかとかもそういった状況ですし、あるいはニュースや新聞記事を待つというのは全てそうです。

 そこで問題となるのが、誰かが「体験を描写する」そのタイミングはいつであるべきか?ということです。もっと言えば、どのタイミングで体験が描写されれば、その描写は最も正しいのか?ということです。

 例えば、ある素晴らしい体験をして、その後ある程度時間をおいた段階で思い出すと、ああやっぱりあれは素晴らしい体験だったなあと思う。例えばメロン記念日で言うと、あのライブでの柴ちゃんの笑顔は最高だったなあとか、大谷さんの歌声が素晴らしかったなあとか、そういう風に思い出すわけです。体験を想い出にする。で、そういう段階になって実際DVDを見たりすると、あれ、こんなもんだったか?という風に思ってしまうわけです。つまり想い出が体験を超えてしまう。まあメロン記念日はDVDでも素晴らしすぎるので比喩としてふさわしくなかったかもしれませんが、例えば昔食ったときはこの料理もっとうまいと思ってたとか、すごく怖いと思ってた映画が今見るとそうでもないとか。

 そうなってしまった時、すでにその人の中での描写は、本来そうであったはずの体験からかけ離れている。「体験」と「描写」のあいだに時間をおいてしまったために、自分の中でバイアスがかかっているわけです。だとすれば、それはやはり正しい描写だとは言えないだろうと思うのです。

 だったら「体験」と「描写」のあいだに時間を置かない、つまり実況などの形で逐一状況を説明すればいいのかというとそれも疑問です。客観的な事実を伝えるのならばそれでいい。でもここで「描写」に求められている「体験」とは、その人の気持ちも含めての「体験」なのです。例えば柴ちゃんの笑顔が可愛いなあとか、どうやったらあんな笑顔が出来るのか分からないけど今夜鏡の前で練習してみようかなとかそういった、柴ちゃんの笑顔を見るという「体験」から派生する感情や思考、とまどいのようなものとか、そういったものを全て含めての「体験」を描写してほしいのです。そしてそれは、やはり実況という形では伝えられないものです。私たちの感情や思考は常に単発的で散文的で反射的なのであり、そんなものを逐一「描写」されたところで、こっちには意味が伝わりません。

 意味が伝わらなくても、それが正しい描写であればそう描写すべきでしょうか? 確かにそれも一つの答えであり得るかもしれませんが、相沢はそうは思いません。というか、そんな「描写」は読者にとって必要ない。だから結局のところ、読者が「描写」に何を求めるのか?ということが問題なのです。そこが出発点であると言っていいでしょう。問題は描写する側が何を望んで体験を描写するのかということではなく、むしろ逆で、読者が何を求めて体験が描写されるのを待っているのかということです。

 その答えは簡単で、つまりその「体験した人」が体験によって感じた思い、感動、激情、そういったものを正しく受け取りたいのです。彼の感動、そのものを、そのままの形で私に分けてほしいのです。体験の描写に望むこととは、少なくとも相沢にとってはその一点です。

 しかしそもそも、そのような「描写」が可能でしょうか? 難しい、というか不可能なのではないでしょうか? 体験によって感じた思いを正しく描写すること、それ自体は可能かもしれない。だけどその思いを他者に正しく伝えることが出来るのでしょうか? たぶん無理です。なぜなら、その「思い」自体を伝えようとするのならば、なぜその「思い」に至ったのかという経路を説明しなければならない。例えば「濡れた犬を見て悲しい」という「思い」自体を伝えようとしたとき、なぜそう思ったのかを説明してもらわないと「思い」のニュアンスが分からないわけです。「むかし犬を飼っていたのだがその犬は死んでしまいそれを思い出して悲しい」での「悲しい」と、「これから出かけるんだけど雨が降ってるらしいから悲しい」での「悲しい」は全く違う。「思い」を正しく伝えるとは、その「思い」に至った経路を正しく伝えるということに他なりません。だけどその「経路」とはその人のこれまでの全ての人生に関わってくる話なのです。「濡れた犬」という言葉からその人は何を考えたのか? それを知るには「彼が犬を飼っていたのか/いなかったのか」を知らなければならないし、「これから彼は出かけるのか/出かけないのか」を知らなければならない。それら全てを伝え切るということが、一人の人間に出来るとは思えません。

 だとすれば、どこかで手を打たなければならない。だからこの長文の結論としては「それでも手探りで描写するしかない」ということになるのでしょうが、しかしそうするにしたって体験を描写することの困難さは依然問題として残っているわけで、一体全体私たちは、どうしてこんなに難しいことを平気な顔でやれるのでしょう?