プレーンソング

 保坂和志「プレーンソング」
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 何も起こらない話だということは知っていて、そのつもりで読み進めていたら、本当に何も起こらなかった。勿論これは批判などではなくて、そういう小説を意図して書かれたものなのだろうということは、作中「ゴンタ」という映画監督志望の男に作者がこう語らせていることからも分かる。

「(略)そんなんじゃなくて、本当に自分がいるところをそのまま撮ってね。
 そうして、全然ね、映画とか小説とかでわかりやすくっていうか、だからドラマチックにしちゃってるような話と、全然違う話の中で生きてるっていうか、生きてるっていうのも大げさだから、『いる』っていうのがわかってくれればいいって」

 これはきっと、保坂和志の小説的立ち位置の意志表明であると同時に、小説全般に対する批判ともとれる。「プレーンソング」はいわゆる劇的なものを排除し、ゆったりと流れる時間を丁寧に描写した小説であり、そういった意味では質の高い小説なんだろうと思う。文章もうまいなあと感じるし、最後まで楽しく読める。
 だがそれでもやはり、この小説を評価する人とはあまり仲良くなれないだろうなという気もする。この小説はどうしたって「小説を読む人」だけが読むべき小説だからだ。確かに美しい時間が流れているし、日常の中でのちょっとした面白さは溢れているのかもしれないけど、それでもこの小説を720円を出して購入する人というのはやっぱりちょっと小説が好きすぎるのではないかと言わざるをえない。勿論当人が満足しているのであればそれに越したことはないだろうけど、もっと安く楽しめることなんていくらだってあるだろうし、保坂和志保坂和志で小説読みを信頼しすぎなのではないか。
 小説読みのための小説は、マンガ読みのためのマンガ(かつてのコミックキューなど)や、プロレス好きのためのプロレス(現在の新日)、アイドル好きのためのアイドル(現在のハロープロジェクトというかその売り出し方)などと同様に、あまり趣味の良いものではないように思う。というかそこで顧客が満足するものを作るなんていうのはちょっと甘えすぎなんじゃないのかという気もして、何というか、もっとはじけてみても良いのではないか。
 別に劇的なものが素晴らしいわけではない。事件なんて起こらなくったっていいだろう。だけど全ての小説家にはやっぱり「普段小説を読まない人にどうやってこの小説を読ませるか?」という企みを抱いていてほしい。少なくとも、その小説が商品であるならばそうだろう。小説も、映画も、歌も、喋りも、全ては手紙のようなものであって届けられるべき人に届けられなくてはならないのだから、もしこの小説が届けられるべき人がたまたま小説読みでなかったらどうするのか? そういった観点で私、相沢は「最強伝説黒沢」と「前田日明」と「ライブでのメロン記念日」を応援しています。