Berryz工房イベントレポ

 よみうりランドEASTにはBerryz工房の新曲が何度も何度も流されていて、ああ良い気分だなあ、席もかなり近くて良かったなあ、と思っていたが、自分の右隣の席がなかなか埋まらない。どうしたことか。この席に座るべき者は来ないのだろうか。と思いながら開演5分前になり、自分の右隣の席にようやく現れた客が、他ならぬ掟ポルシェさんだった。正直なところ「なぜ俺が?」という思いにとらわれて参った。何千人という単位で集まったお客さんの中で、なぜ掟ポルシェさんの隣に座る人間が俺でなくてはならないのか?という思い。それは偶然ではなく、私にはどうしたって必然に思えた。

 偶然なのかもしれない。確かに客が何千人、何万人いたって、そこに掟ポルシェさんがいれば掟ポルシェさんの横には誰かが座るのだし、それが今回はたまたま私であっただけなのだと言うことも出来る。しかし問題は、その偶然に私が意味を読み取れてしまうという点にある。単なる事象の継起にすぎない現実という時の積み重ねであっても、そこに意味を読み取ることが出来るのであれば、それはもはや偶然ではない。意味を読み取る主体である私が、そこに対象として登場しているということが問題なのだ。

 私は「私の横に掟ポルシェが座った」という一つの偶然に対して、何らかの意味を読み取ることが出来る。そんな、意味を読み取る能力のある「私」が「私の横に掟ポルシェが座った」という事象の登場人物として選ばれたとき、偶然は必然となる。必然となるというか、「それは必然だ」と私は読み取ることが出来る。つまりこの事態を私は偶然とも必然とも取れるということであって、そして私は「全ての事柄なんて偶然なのさ」と笑えるほど大人びてもいないし、さらには全てが偶然であるよりも必然であった方が面白いとも思うし、そんなわけで私はそれを必然だと認識する。全ての必然とは、きっとそうして生まれるのだ。だとすれば私がこの場所にいるのも、Berryz工房が目の前にいるのも、全ては必然であるのだろう。必然として女の子を愛し、必然として女の子を見つめるというわけだ。

 そしてBerryz工房はとても良かった。彼女たちは、彼女たちの年齢にしか出せないものを私たちに見せる。それは特別な年齢なのだ。大人となった私たちは既に知っている。何を? その特別な年齢とは、実はものすごく限られた年齢なのだということを。あの年齢を過ぎれば人はみな同じだ。だからどうだってわけじゃないが、あの年齢だけが見せられる美しさというものは必ずあるし、だけどそれは彼女たちが大人になれば絶対に失ってしまう美しさであって、それは唄も動きも喋り方もそうだし、そんなことを感じて泣いていた。

 あとはまあ、Berryz工房好きの皆さんに水をかけるようなことだから適当に書くけども、やっぱりBerryz工房さんをメロン記念日を愛するようにはまだ愛せないだろうなということを思い、何というか、恩返ししたくなる感じがまだ持てないというか、ごっちんやWやメロンには恩返しをしたい、直接じゃなくて貰ったものをいい形で返したい(それは自己完結であって全く問題はない)という思いがあって、でもそれはBerryz工房さんの過程を知らないからだろう。過程っていうのはつまり言い換えるならば努力とかそういったことで、彼女たちは凄まじい努力をしていると思う、唄やダンスや握手なんかでそれはもうすごい努力なんだろうけど、でも本当に見てみたい努力っていうのはそういうことじゃなくて、例えていうならばアスリートが頑張って練習する姿には興味などなく、どっちかと言えばプロレスラーが意味なくトラックを引っ張る姿とかそういった種類の努力、つまりは価値のない努力って言えば伝わるだろうか? ベクトルの完全に間違った努力っていう過程が見たいわけで、そういう点でメロン記念日はすごくて、大谷さんが「初恋」の英訳詩をライブで語ったりとか、柴ちゃんがアンプを蹴って客席に放り込んだりとか、そういう馬鹿っぽさというか、唐突さというか、本当に、書いててメロン記念日がどんどん好きになってしまって困る。でもきっと、Berryz工房さんもそうなっていくんだろうし、そもそも単独ライブにでも行かなきゃ何も分からないんだろうなあという思いもあって、結局のところ現場に行かないで分かるものなんて何もないのだろう。あと「なんでWOTAは気持ち悪い人間ばかりなのか」ということについて考えていたりしました。熊井さんと夏焼さんはとても可愛かったと思います。