ライフ・アクアティック

映画「ライフ・アクアティック」(恵比寿ガーデンシネマ

 久方ぶりに映画を見れば、ああ映画はずるいなあ、と思うのは映画においては全てに物語る権利が許されているという部分だ。登場人物が物語る、展開が物語るというのは当たり前であってそれは小説においても同様なのだけれども、例えばこの映画においては海のカラフルな生物が物語るし、黄色い潜水艦が物語るし、ヘネシーという嫌な男のでかいメガネのレンズが物語るし、銀行の監視役ビル・ユーベルにいたってはその髪型が物語っている。

 人間なんて何かを見たら何か自分にあった適当な物語を作り出すものであって、だから本当は映画に物語などなくたっていい。いい感じにハゲあがった中年のおっさんさえ映していれば、彼が何をしようと私たちは彼の物語を想像する。だから映画における物語とは、そのハゲあがったおっさんを見て私たちが想像する物語を邪魔さえしなければ、きっとどんなものだっていいのだ。言ってみれば映画の物語とは、物語のヒントにとどまっていればそれで良いのであって、それは映画に許された特権である。

 何故小説がそういうわけにはいかないかといえば、それは結局のところ映画とは違い、小説においてはヴィジュアルが連続しないからである。ビル・ユーベルは画面に登場するたびにハゲあがっている。それは一人の人間が演じているのだから当たり前の話であって、いちいち「私はまたもやハゲあがっています」などと説明したりなどはしない。既にそれは、彼の外見が物語っているのだから。しかし小説では常にいちいち文章が物語らなくてはならず、というのもそれは人は以前に読んだ段落のことを忘れがちだからであって、この「人は結構忘れる」という単純な真理こそが問題である。人は結構忘れるから、小説において作者は何度も何度も説明する必要があって、その説明の仕方が巧妙であればあるほど良い小説ということになるのだが、しかしまた別のやり方もあるのでは?

(例)登場人物が登場するたびに違う外見になっている

 あとエレノア・ズィスーを演じるアンジェリカ・ヒューストンがおそるべきかっこよさの女ぶりを見せつけていてしびれた。舞台上での宮川花子師匠ぐらいのかっこよさと言えば伝わるだろうか? 宮川花子が天才的な女性スナイパー役を演じる映画があったらとても面白いのではないだろうか? そしてボス役は池乃めだか師匠だったら素晴らしいのではないか?

「花子はんやぁ。おまはんの仕事、玄人すじはんらからえら評判や。小さな子供蜂の巣に出来るんは花子はんだけやてなぁ(笑)」
「(銃の手入れをしながら)そぉかぁ。そら、ギャラ上げてもらわなあかんなぁ」
「ふふっ。そら殺生や。わしお家賃払われへんがな」
「ほな、大家でも殺したろか?」
「むちゃくちゃやぁ! ほんま、花子はんが殺せへん人なんかおらんにゃろなぁ」
「あぁー、そやな。……死人以外は、みな殺せるわ」

 かっこいい!