社会学を学ぶ

内田隆三社会学を学ぶ」
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「交叉イトコが優先されるのは平行イトコが除外されるのと同じ理由による」といわれるように、肯定的/否定的な二つの側面は別物ではなく、同じひとつのシステムの作動にもとづいている。

 ちょっとかっこいい言葉だと思ったのは、きっとこの「」内にひとつの世界しか存在していないからだろう。この「」内には、交叉イトコと平行イトコだけが存在する。その他のイトコは存在していないからこそ、この論理が成立するわけであり、そこがかっこいい。かっこいいとは一つの世界だけを認めるということであり、カリスマ(=かっこいい男)たちは常に愚者を馬鹿にするのだ。

つまりT型が体現していた差異は、フォード・システム自身が合成し、つくりだした恣意的な差異ではない。フォード・システムはそこで外部準拠、つまり既成の価値志向や欲望の型に依存し、適応していたのである。

産業システムの営みを安定化するには、システム自身による欲求の人為的な拡張が必要である。すなわち産業システム自身が人びとのうちに新たな欲望の次元をつくりだし、その欲望を刺激し、活性化し、膨張されることである。

 この辺り「なるほど」と思うと同時に「うさんくせえな」と思ってしまう。新たな欲望の次元をつくりだすということ。それは「i Podが(というかシャッフル機能が)音楽のあり方を変えた」と体感として認識している自分と「つまりそれはホイチョイじゃねえのか」と疑う自分のせめぎ合いだ。

 だったらi Podとホイチョイの違いはどこにあるのかということだが、i Podの場合は手法ありきで(たまたま)現実が変わった(ように見える)のに対して、ホイチョイは現実を変えるという意志ありきで手法が生み出された(ように見える)点がある。でもそれだけなのだろうか? だとしたらホイチョイのあれな感じ、もっと言えばイトイのうさんくささってのは、あるいは少し前の韓流ブームだとかやらの嘘っぽさってのは、i Podがもたらした変化と本質的には変わらず、順序だけが違うということだろうか?

 もっといえば、安くて経済的というフォードのシステムは確かに「既成の価値志向」、つまり「安かったらそりゃ安いに越したことはねえ」という価値志向に合致しているのは確かだろう。だがそれに対してGMが打ち出した「車ってものはすごく高級なものであって高いけど持ってるとすごいですよ」っていう価値観ってのは、果たしてシステム自身が恣意的に作り出した「新たな欲望」と言えるのだろうか? やはりそれは、すごいものを持つと嬉しい、という「既成の価値志向」に準じているのではないか?

 単純にGMは「すごいもの」の一つの形式を作り出しただけではないのか。いや、作り出したというよりもむしろ、「高級=すごい」あるいは「デザイナブル=すごい」という意識を、よそのシステムからただ盗んだだけではないのか? と、何かGMを貶めるような言い方になったが別にそんな意図などはなく、意識をよそから盗んでそれが成立するのであればそりゃ大成功だと思うし、そこではじめて経済学は後追いの学問ではなく実学(=儲ける手法)となるのだと思う。

 あと「産業システム自身が人びとのうちに新たな欲望の次元をつくりだし」って部分は「要するに人間なんて勝手に欲望の次元をつくりだすようなバカだ」って結論を導くのだろうが、それは間違いのないところだと思う。おそらく「ブーム」というものが生まれてしまうということ自体、人間のバカバカしさを意味しているのだ。