「大統領の理髪師」

 映画「大統領の理髪師」

 いまや猫も杓子も韓流韓流であるという話は聞くが、生活習慣上主婦の方々と触れ合う機会がないために実感としての「韓流」を知ることはなかった。しかし、ここにいた。平日の昼間である。主婦の方々がグループで映画を見に来ている光景は映画館としては珍しいものなのかもしれないが、しかし文化を享受する態度として彼女たち(主婦たち)は非常に誠実であるように思う。映画の選び方に迷いがない、というのはつまり「この映画を見るような自分になりたい」という邪念が一切ない。

 音楽、映画、小説などジャンルを問わず、文化的なるものに接するとき人は多くの場合「この作品を享受するような自分になりたい」という意識がはたらく。さらに言えばその前段階において、どんな種類の作品でもいいからとにかく文化的な作品を享受したい、と考える際でも「小説を読むような自分になりたい」という意識ははたらいている。文化的に豊かな時代の人間にとっての文化とはそのようなものであって、つまり文化的作品において選択肢が多くあり、さらにその選択権は常に消費者の側にある。そしてそれ以上に重要なことには、消費者がその事実を認識しているのである。

 具体的に言えば人は東スポを買うとき「東スポ」という文化的作品(ここで言う文化的作品とは、なくても死なないもののことである)を買うとき、同時に「東スポを買う自分」を買っているのだ。彼は「東スポを買う自分」を買わずに「朝日新聞を買う自分」を買うこともできるし「新聞を買わない自分」を選択することもできるわけだが、その選択肢を認識している、という点が重要なのである。その認識によってはじめて「(文化的作品を)買う」という行為がそのまま「自己表現」につながるのだ。

 主婦たちの韓流ブームにおける一連の行動は、このような「自己表現」をまったく付随しないという点で『文化的』ではないし、もっとずっと原始的だ。しかしそれはそれで正しい。彼女たちは八百屋で野菜を買うのとまったく同じように、韓国人が出演する映画を見る。野菜を買う/買わないという選択肢が二つしかないのと同様、韓流ブームを享受する/しないという選択肢も二つしかないのだ。その立ち位置は非常に「主婦的」である。文化的な視野の狭さがそこにはある。我々がわざわざ隣町の有機野菜専門店へ足を運ぼうと思うのとは、まるきり対照的である。

 しかし本来「文化」とはその場にいる人間を楽しませるだけの原始的なものであっていいのだから、そのような主婦的感覚にもとづく文化の享受はまったく間違っていないし、ずっと単純でピュアである。原始的なものが間違っているわけではない。さらに言えば我々が「ハロプロ」を、というかむしろ「アイドル全般」「女の子全般」を愛し、愛すると同時に作り上げた「文化」だって結局のところ「ああ、可愛や」という原始的な感覚によってのみ作られたものなのだから、WOTAはヨンフルエンザをバカにはできない。韓流スターを見てよだれを垂らす主婦たちは、我々をもっとピュアにした姿でしかないのだ。