とうきょうばな奈

 信頼のおける知人が日記のログを公開した。

http://www.geocities.jp/ymmymk/log.html

 当時の我々が病的だったのは、愛されたいという思いが強すぎたからではなく、身分不相応な人々に愛されたかったというわけではなく、むしろどのように愛されるかにこだわったという点があまりにも病的だったのだ。愛を一つの結論としてとらえることはなかった。そうではなく、愛とは愛を語る手法こそが愛なのだと考え、つまり愛を一つの行動としてとらえた。単純な愛の表現はもはや愛としてみなされなかった。だから我々は「リンク」に過剰にこだわったのだし、匿名を選択することのできる「フォーム」をさりげなく置いたのだ。トラックバックやコメント欄のように愛を数値化する機能はホームページビルダーでは作れなかったし、mixiのように愛をおとしめる装置は存在すらしていなかった。

 愛する方法にこそこだわったロマンティックな我々は、愛に恋する童貞であり、処女であり、そしてやはり客観的に見ればあまりに病的だったのだ。だが病的な思想にこそ真実の芽が宿るのではないかという妄想は、期待は、それこそ病的な、と一笑にふされるべき種類のものなのだろうか? しかしそれならば、そもそも何故日記など書く必要があるだろう? 愛を語る手法の困難さを感じながら生きてきたからこそ、我々はインターネットで日記を書くほどまでに、コミュニケーション不全をこじらせてしまったのではなかったか?