恋する幼虫

恋する幼虫
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 狂った発想もさることながら驚くべきはその練り上げられた登場人物の性質であり、いくつかのエピソードによって登場人物を性格づけし、無理のある展開を無理なく見せるという手法は尊敬に値する。少なくとも「なぜこいつはこんなことをしているんだ」と思うことは一度もなく、おそらくその理由は三つある。一つには登場人物の性格づけにより、彼らの行動は自主的というよりもむしろ強迫的なものとなるから。二つには恋愛(というよりもSEX)に対する親和性があるから。三つには私が素直な人間だから。

 恐怖を感じたのはユキが怪物化するよりもむしろそれ以前だが、これは荒川良々の暴力性や松尾スズキの孤立性が原因というよりも、ユキの「この女はこうするしかない」という切迫感があまりにもリアルだからだろう。人は明らかに自由な存在などではなく、しなくてはいけないことしかできない。特にホラーにおいてはそうであり、彼女が傷つけられるというのはつまり、ホラーの基本理念が「自業自得」であることを意味する。SEXをすればジェイソンに殺される。彼女が殺されるのは「しなくてはいけない」SEXしかしていないからこそであり、つまりジェイソンの言いたいこととは「変わらなきゃ」であって、言わば時代を超えたイチローである。ユキが傷を受けたのも彼女がしなくてはいけないことしかしない、変化を志向しないからこそであって、つまり彼女は罰を受けたのである。そこに第三者の有無は関与しない。全ての物語においてカタルシスは何かしらの変化によって生まれるが、ホラーとは強制的にその変化を生もうとする力学であるだろう。

 いわばホラーとは自由の肯定、非自由の否定だが、物事を自由/非自由に分けるとして純愛がどちらに分類されるかというと明らかに非自由である。愛さなければならないから愛するのだし、愛されなければならないから愛されるときはじめて純愛が発露するのであって、それはSEXの自由さとは一線を画す。そして純愛の非自由さがSEXの自由さと混じり合うことでオーガズムは成されるのだ。