『論理哲学論考』を読む

「『論理哲学論考』を読む」野矢茂樹
ASIN:488679078X
 関数についての問題である。

ある名の定義域に自分自身が含まれている場合に自己言及が生じるわけだが、定義域に含まれているということは、その結果として出力される自己言及文が有意味な命題として値域に含まれていることを意味している。つまり、その自己言及文はなんらパラドクスを引き起こすものではないはずである。
逆に、その自己言及文が無意味であるならば、それは値域に含まれていないということであり、それゆえ定義域にも自分自身は含まれていないのである。とすれば、その場合にはパラドクスを引き起こす分を作ることはできないことになる。
いずれの場合でも、パラドクスの生じる余地はもはや残されていない。

「xの母親」という関数を考えてみよう。そしてその定義域は人間とする。(略)他方、「xの母親」という表現は同じであるが、その定義域を霊長類とする関数を考えよう。(略)さて、両者の場合に「xの母親」は同じ関数なのだろうか。
ひとつの答えは「同じ関数が異なる定義域をもつ」というものである。
そしてもうひとつの答えは、ウィトゲンシュタインの答えであり、「両者は関数として異なっている」というものである。

関数は定義域とコミになってのみ意味を確定する。それゆえもし定義域が最初{0}であるならば、それを関数x+1に入力して得られた1はもうその関数に入力できない。
(略)それに対して、操作はそうではない。操作を施す相手を「基底」と呼ぶが、操作は基底と独立に定まるのである。

たとえば「1を足す」という操作は、出発点として「0」が与えられたならば、その操作を反復することによって自然数列を生み出すことができる。数の「全体」を見通すことはできなくても、このようにして数の「体系」を見通すことはできる。

 天才、としか言い様がない。ひどくまっとうな主張に見える。だがだからこその天才性である。そもそも定義域が異なれば関数として異なるという考え方や、関数と操作が異なるという主張は言われてみれば納得もできようかという話ではあるが、ここまで根源的な部分での奇想が思いつくものだろうか? ひどく当たり前の話だ。しかし「当たり前」に殉じることがいかに困難であることか! さらにタチの悪いことに、本質はいつだって「当たり前」の中に潜んでいるのだ!

ある命題が他の命題から帰結するという演繹の関係は、このようにして、それらの命題の真理領域の包含関係として捉えることができる。命題pが命題qから演繹的に帰結するということと、命題pの真理領域が命題pの真理領域に含まれるということは、まったく同じことなのである。

 演繹、ということについて。たとえばpを「太郎は男である」とする。同様にqを「太郎は子供である」とする。するとpとqから演繹的に導かれる命題は「太郎は男かつ子供である」つまり「太郎は男の子である」となる。これはpとqの真理根拠の共通部分を取り出したものであり、pとqが命題として正しいのであれば、演繹的に正しい命題となる。これはわかる。妥当な結論だろう。
 ベン図でこれを表現するとなると、pという円がある。qという円がある。pかつqとは、その二つの円の共通部分を取り出すことだ。少なくともpかつqなのであれば、その範囲はpという円とqという円の共通部分に含まれているはずである。これもわかる。自分の中では妥当である。
 しかしこれを物理学や数学の世界に展開するとどうなるか。例えばニュートン力学においては三つの定理から、さまざまな式が導かれる。あるいは数学(特に数論)においてはいくつかの公理があり、そこから定理や系が導かれるのである。
 ここで現れる感覚的な異常! つまりベン図において展開される物理学や数学の定理とは、いくつかの公理によって分断される範囲の内側においてのみ展開するのである。あれだけ豊かな定理の数々は、初期の設定で定められる範囲の中で、さらに内側に向かって展開した結果だという、これは明らかに感覚的におかしくはあるまいか?
 つまり演繹とは、どこか一点に向かって直線的に向かう思考ではない。そうではなく演繹とは、例えば公理からなる一つの円があるならば、その円の内側へ、内側へ向かうという考え方なのである。演繹は中心に向かう。それならばその中心にあるものとは何だろうか? それを「真理」と呼んでいいものだろうか?
 以下は金言。

出発点は現実世界と日常言語である。(略)
ゴールは、思考可能性の全体を見通すことである。
そのため、日常言語を分析し、再び日常言語を構成するという往復運動を行なう。『論考』の旅は名と対象から始まるのではないし、また理想言語のような、出発点とは別のどこかをめざすものでもない。ここを出発し、ここに帰ってくる。そうして、自分のいる位置を明らかにする。

 出発点が現実世界であったからこそウィトゲンシュタインはこれだけのことを成し遂げられたのだとここで主張したい。リアルから分断されたファンタジーに生き続けることなど出来はしないのだ。あくまでもファンタジーはリアルの立ち位置において視認できるものである。当たり前だ! だから「人の役に立たないし立とうともしないが研究をする」などというノンポリティカルな学問的生き方はまったくもって論外だと私には思われる。少なくとも、当人にとって何か切迫した理由がないのならば、学問に生きる価値などないのではないか?