『論理哲学論考』を読む

「『論理哲学論考』を読む」野矢茂樹
ASIN:488679078X

一・一改 世界は事実の総体であり、個体、性質、関係の総体ではない。

そこで、現実性から可能性へとジャンプするためには、事実を分解し、新たな再結合の可能性へと備えなければならない。

あるいは、「ミケが寝ている」というインクの染みを並べれば、「ミケ」があの猫の代わりをし、「寝ている」という文字が現実の寝ている状態の代わりをして、それによって、いまは起きて「ウニャ」とか鳴いている現実に対して、可能的にミケが寝ているという事態を表すことができる。
(略)
ミケが寝ているという可能的な事態は、「ミケ」という文字列と「が寝ている」という文字列をしかるべき順番で実際に並べてみて、「ミケが寝ている」という文を現実に作ってみせることによって、表現される。ここにおいて代理物は現実に結合されている。

 現実の世界、あるいは可能的な世界は何で出来ているのかという話である。たとえば「亀井絵里が黒いドレスを着て笑っている」という世界は事実の総体であって、「亀井絵里/黒/ドレス/着る/笑う」という個体や性質の総体ではない。これでは「笑っているドレスが黒い亀井絵里を着る」かもしれない。個体や性質や関係などを寄せ集めたら世界が出来るというわけではなく、それらによって作られた「事実」が組み合わされることによって世界は成り立っている。

 現実の世界がそうだったとして、我々は(現実はそうではない)世界を想像することもできる。その際我々は、はじめて事実を分解し、新しいやり方で結合するのである。問題はその結合における「新しいやり方」であるが、これは想像上のものであってはいけない、というかそれでは想像にならない。その結合とはあくまでも現実に実行されるべきものであって、むしろ対象が想像される(=作られる)のである。

 例えば「亀井絵里が投げキッスをする」という想像をするのであれば、我々は「亀井絵里」と「投げキッス」という対象の代理物を頭の中で作り上げるのである。そうして生まれた代理物が『現実に』結合されることによって、それは想像となる。つまり我々は「亀井絵里が投げキッスをする」姿をそのまま想像しているのではない。むしろ想像の亀井絵里が想像の投げキッスを、『現実に』しているのである。言ってみれば想像するという行為は、想像の対象を『現実に』繋ぎ合わせる行為である。

 この考え方は非常にエキサイティングなものであり、様々な事象に展開できるだろう。例えばロマンティック/メルヘン/物語/不思議ちゃん/などがそうである。また『現実に』繋ぎ合わせる職業、たとえば多くの研究職や実学もこの考え方から学ぶことは多いに違いない。つまりは『現実に』繋ぎ合わせることが難しい、あるいはあまり繋ぎ合わせようと思われなかった代理物を勇敢にも『現実に』繋ぎ合わせることによって、新しい何かが生まれるだろうということである。

ある対象がその性質をもっていないと想像すると、その対象の同一性が損なわれ、それゆえその性質をもっていないと想像することができないようなとき、その性質はその対象にとって「内的」とされる。たとえば、物体は時間空間的位置をもつ。物体が(略)そもそもなんらかの時間空間的位置をもつだろうことは物体にとって内的である。

 例えば亀井絵里が身長8メートルになったとしても、それを我々は亀井絵里だと認識するだろう。というか「亀井絵里が身長8メートルになったとしても」という仮定が成立するという時点で、この仮定での亀井絵里は我々の知っている亀井絵里と一致すると言える。だから亀井絵里にとって、身長が何センチである、という性質は外的なものである。だが、身長が何センチか言うことができるだろう、つまり亀井絵里の身長は何センチなのかという問いが意味をなすだろう、という性質は内的なものである(身長という概念があてはまらないのならば、それはもはや亀井絵里とは言えず、亀井絵里から身長という概念を取り外した存在であるから)。

 だがここで「亀井絵里はかわいい」という性質は果たして内的なものか、それとも外的なものか、という問題が生じる。つまりは「亀井絵里がかわいくないとしても」という仮定が成立するかどうかということであり、この問いはWOTAにとっては成立せず、逆にWOTAでない人間にとっては成立する。つまり「かわいい」という性質はWOTAにとっては内的な、WOTAでない人間にとっては外的なものである。おそらくはアイドルとはそういったものである。本来は外的であった性質をある種の人間にとって内的なものにしてしまう、それがアイドルのもつ特殊性である。そしてそれは、宗教(信仰)のもつ特殊性とも等しいものだろう。

 ※娘。をアイドルだと言っているのではない。むしろ本来外的であった性質を内的なものとして見ているという視点こそが、アイドルを見る視点である、ということである。

赤ん坊は最初から物たちの世界に生きているわけではない。周りで使用される未文節の命題が名に切り分けられ、その論理形式が網の目全体としてしだいに明確になってくるにつれ、対象もその姿を明確にし始める。これが、われわれが対象に到達する方法にほかならない。

 論理形式(=内的な性質)とは、あくまでも経験によって知られるという話である。だからこそWOTAとWOTAでない人間が理解しあうのは難しいのだ。WOTAとは対象へのある性質を内的な性質だとみなす人間のことであり、その内的な性質とはあくまでも経験によって知られるものだからである。