ニッポニアニッポン

ニッポニアニッポン阿部和重
ASIN:4101377243

俺はトキらの境遇を憐れみ運命の紐帯さえ感じ取って、もう何ヶ月もの間打開策を模索し続け種々の欲求を制御してきたというのに、ユウユウとメイメイはそんなことはお構いなしに交尾に明け暮れていやがった。

 これはまさにストーカーの論理そのものであって、「俺」がこの後どのような行動を起こそうとも、あるいは実際には何も行動に移さないとしても、明らかに彼にはストーカーと呼ばれる権利がある。つまりストーカーとは行動ではなくむしろ思考の論理であり、その論理とはすなわち「愛したのだからその見返りはあってしかるべきである」という主張に他ならない。もちろんここでの愛する相手とは異性である必要はないし、あるいは人間でなくても良いだろう。

(例)冷蔵庫に嫉妬する男。「俺という男がありながら、何でもかんでも詰め込みやがるのだ!」

 しかしながら「愛したのだからその見返りはあってしかるべきである」という論理はもちろん一般的なものであり、それがストーカー氏とストーカーでない人間を区別する材料にはならない。ストーカー氏の問題は彼の愛を伝える手段が世間一般の行動と一致しない点なのであって、しかし愛が極めて個人的なものである以上その愛を伝える手段も非常に個人的なものであってしかるべきなのだから、本質的に代替不可能なものである。つまり愛を伝える手段を変えるということは、彼の愛そのものを変えてしまうことに他ならない。

 であるならばもはやストーカー氏は自らの愛を、そのままの形で伝える他ないわけだが、もちろんどんな思いであれそのままの形で思いを伝えるということは極めて困難だと言わざるをえない。しかしストーカー氏がエスパーとなれば問題はひとどころに解決する。エスパーとしてのテレパシー能力を用い、自らの強い愛を思念としてそのまま相手に伝えるのである。もはやストーカー氏への恋愛講座は、いかにしてエスパーになるかというマニュアルでしかないのではないか?

(例)テレパシー能力で愛を伝える。彼女の答えも、エスパーである自分の心にははっきりと届く。

だが、己の運命について再考するうちに、(中略)もその流れに含まれていたのかもしれぬと、彼は思うようになったのだ。そう結論する以外に、(中略)という厳しい現実を乗り切ることなど春夫には出来なかった。

 妄想とは、その妄想が切羽詰まった理由により生まれたときにこそ何らかの「力」を発揮するだろう。そしてその切羽詰まった理由に対して共感することが出来るのであれば、妄想がいかに突飛なものだったとしても、ある程度の親和性を持つのではないか?

(例)冷蔵庫に嫉妬する男は、かつて冷蔵庫そっくりな顔の女と死別している

彼女はどことなく、面影が似ている、というか、そっくりだと言っても過言ではない、彼女は確かに、(中略)と見た目が瓜二つ、まるで生き写しだ。

 妄想が現実を変える一例。これは小説だけの問題ではなく、映画やマンガにも応用できるだろう。

(例)ブサイクな彼女が、セックス描写の時のみ美女(幼女/外国人)になるエロマンガ