「<美少女>の現代史」

「<美少女>の現代史」ササキバラ・ゴウ
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彼女は、とても傷つきやすいからこそ、それを意識してしまった私の前では、もう永遠に傷つけられないのです。

 ゆえに美少女は無敵である、という主旨。しかし登場人物がすべて「馬鹿」であればこの論理は成立しないのではないか?
(例)美少女以外が全員知的障害者
 美少女を集団の知的障害者が楽しげに殴りつける、という喜劇。しかし暴力が与える生理的な不快感の問題がある。そもそもそれでは「美少女」の物語ではなく「倫理」の物語になってしまう…。
 WOTAと娘。の関係性にも似ているだろうか? しかし前提としてWOTAが娘。を「傷つけられない」のは両者が同じ舞台に立っていないからであって、言うなれば登場する物語が異なるからだろう。
(例)異なる物語の登場人物の相互作用(傷つけあい、あるいは恋愛や憧れ)

そう考えてみると、ラムがいつも水着姿であるということは、大変象徴的に見えてきます。

 物語のコードが全てを決定する、という考え方(主に手法として)。だがそれに先立つ大前提(お約束)も存在するはずだが、その線引きはどこにあるのか? 「死への嫌悪感→暴力批判」抽象的な言い方をすると「獲得への欲求」だろうか?
(例)命よりも性欲を重用視する登場人物
 あるいは現実世界での大前提(お約束)が崩れるとき、物語としてのカタルシスが生まれるのではないか?
(例)戦場での恋愛

そこには確かに「視線としての私」の居場所があります。私に役割が与えられ、実存を確認できる場所が、そこに出現しています。

 コスプレは視点ありきの行為である、という主旨。視線をどこに置くか? あるいはその視線は認知されるべきか?