[日常][手法][テレビ]NHK朝ドラ「あまちゃん」の宮藤官九郎さんの脚本がすごい!っていう三つの仕事っぷり

 この4月から放送開始したNHKの朝ドラであるところの「あまちゃん」なんですけども、いやもう、観ました? 奥さん観ました?って感じですよ。そりゃまあ、こちとらテレビってものが大好きなわけですからね。ワクワクしながら観るわけですよ。ハードルを上げながら。そしたらね、もうね、これね。面白いねー! 面白いよねー! 言うよねー! 言うよねー!(2度目)って。いやこれ、一週目観ただけですけど、紛うことなきことになるはずなので、絶対観たほうが良いですよ。「あまちゃん」は観たほうが良い! って、これだけが言いたいエントリなので、あと全文余談ですよ。すごい長いですけどね。余談がね。まあそもそも、余談ばっかりの人生ですけどね、大概そういうもんですけどね、ええ。

 まあここから長過ぎる余談ではあるんですけど、余談にも余談の立つ瀬はなくはないじゃないですか。だから余談としてね、「あまちゃん」の、特に脚本が、とにかく素晴らしいんですよって話をしますね。脚本は宮藤官九郎さんですよ。あのー、いわゆる「好き嫌いが分かれる」っていう風に言われがちな方だと思うんです。そういう評価が正しいかどうかは別として。でも好き嫌いとかっていうのは人それぞれでそこ話してても発展性がないですからね、好きとか嫌いとかではなく、センス云々とかそんなのでなく、理屈として、あるいは職業脚本家として、宮藤官九郎さんがすごい仕事を「あまちゃん」でやってのけているっていう、ここからはそんなお話でございます。

 そんなわけでここからは、「あまちゃん」一週目のネタバレを含みますのであしからず。観てない方は、リンク先で登場人物表をご参考に。では、「あまちゃん」の宮藤官九郎さんの脚本がすごい!っていう三つの仕事っぷり、です。

 仕事っぷりそのいち:情報量が半端じゃないのがすごい

 これはまあ、たぶん宮藤官九郎さんの作品って全般そうだと思うんですけども、作品時間に対しての情報の盛り込みっぷりってのが単純に多いじゃないですか。ほかの脚本家の方と比べて、単純に文字量も多いんじゃないかと思いますけどたぶん。で、その情報量の多さっていうのは「あまちゃん」でもそうなんですけど、これが15分の朝ドラっていうスタイルにおいて、より如実に顕われている。如実に顕われているっていうのは、文字量が多いっていう事実としての話ではなくて、情報をとにかく多く入れ込みたいという、作家としての意図が如実に顕われている。そう、意図が最初にあるんですよ、明らかに。そうしたいという意図、それはもしかしたら、癖(くせ)というか、作家的本能に近いものなのかもしれませんが。

 それはたとえば第4話において、春子が娘であるアキに対して発した一言に、顕われています。

 「ママが嫌いなものばっかり好きにならないでよ!」

 この台詞。この台詞がすごいんですよ。この一行に込められた情報量がすごいよ!って話なんですよ。

 だってこの時点で、「ママが嫌いなものを娘(=アキ)が好きになった」って描写は、一度もないんですよ。その予兆すら一つもない。にも関わらず、春子は「ばっかり」っていう、そういう言葉を使うわけですよね。「ママが嫌いなものを好きにならないでよ!」じゃなくて、「ママが嫌いなもの『ばっかり』好きにならないでよ!」なんですよ。この台詞によって、描かれていない過去が想起される。春子が嫌いでアキが好きなものはほかにどんなものがあるんだろう、と視聴者が想像する。ここにおいて「台詞」は、物語を進めるツールとしての機能とは別に、描かれていない作品世界の裏側を予兆させる装置として機能するわけです。描かれていない世界を想像させる。その視聴者の想像込みでの「情報量」が、ちょっと尋常ではない。

 このようにして、物語は、立体化していく。物語で描かれていない部分を受け手が想像する、補完したくなる、それこそがフィクションの醍醐味の一つだとぼくは思っています。作り手の愛がある、っていうと大仰ですが、少なくとも登場人物一人一人に対して作り手が責任を持っている(そう自覚している)ことは疑いようがない作品であることは間違いないので、今後「あまちゃん」はさらに面白くなり続けちゃうから大変なんですよ! えらいことです!

 仕事っぷりそのに:登場人物の行動の動機が切実な欲望に由来しているのがすごい

 原則としてドラマというのは、というか映像においてフィクションを物語るということは、人物の行動を羅列していくということです。ナレーションや心の声で人物の心理を説明するというのも手法としては存在しますが、それはやはりあくまでも例外であって、基本的には人物の心理というものは、その人物の行動によって視聴者から想像されるものでなくてはならない。そこで大切になってくるのが、動機です。人物の行動しか描かれない以上、その行動のきっかけとなる動機こそが重要であり、また共感される必要があり、かつ行動へ至るまでの壁(物理的な問題や、心理的な障壁など)が高ければ高いほど、その動機は切実なものである必要があります。

 動機がしっかりと考えられていないお話は、おおむねひどいことになります。人物の行動に対してその動機を視聴者が納得いく形で想像できない場合は、「お前なんでそんなことしてんの?」あるいは「お前なんでこうしないの?」という具合に。あるいは動機がそもそも存在していない、つまり状況の要請のみを人物の行動原理としている場合、それはよく言うところの御都合主義に陥ります。

 とは言えもちろん、全ての人物の全ての行動の動機がしっかりしていないといけないかと言えばそうではない。むしろ、動機がちょっと分かりにくいような行動によって、物語に深みが出るというケースもあります。ただそれでも、ここでは絶対に動機への共感が必須だという場面はやはりあって、じゃあ具体的にそれはどういう場面かと言うと、人物が行動へ至るまでの壁(物理的な問題や、心理的な障壁など)を乗り越えることで物語的カタルシスを生じさせようとする場面、まさにそこでの動機の欠落は、致命的な失敗となります。

 一般論が続いてしまいましたが、話を「あまちゃん」に戻しましょう。「あまちゃん」の一週目。一番描くべきことは何か? これはもう、間違えようのない問いですが、明らかに「主人公・アキが海女になることを決意する」ここです。彼女の決意を描かなくてはいけない。しかし、そこには壁がある(というか、物語的カタルシスを生もうとするなら、壁がなくちゃいけないわけですが)。アキは普通の女子高生です。海に潜った経験もそんなにはないでしょう。何より彼女は引っ込み思案で、変化を好むような性格ではありません。だから、決意に至るまでの壁を超えさせなくてはいけない。動機が必要なわけです。ではアキに、一体どんな動機を与えるのか?

 そして宮藤官九郎さんは、アキに、おいしいウニを食べさせたのです。ものすごくおいしいウニを! じぇじぇ!

 ここが本当にすごいと思いました。内面とかじゃないんです。自分を変えたいとか、成長したいとか、そういう内向きの理由ではない。食欲です。おいしいものを食べたい!という、誰にもあるその切実な欲求。これが彼女の決意への動機になっている、そこが本当に素晴らしい! そこにはぐだぐだした理由などなく、ただ完全に切実な欲望がある。アキを演じるところの能年玲奈さんの「知らないものを知るときの笑顔」の素敵さもあって、これでもう、「あまちゃん」の一週目は圧勝! っていうか優勝! 金メダルです。おめでとうございます。ありがとうございます。第3話、おいしいウニを食べてしまったアキの悩む背中を押すように、祖母、夏が言葉をかけます。

 「自分で取ったウニ、食べてみたくねえが?」

 こうしてアキは、おいしいものを食べたいという誰にも共感できる、かつ切実な欲望を動機として、海女になることを決意したのでした。で、このあと実際に、アキは夏から背中を押されて海に飛び込む羽目になるのですが、重要なのは、夏の上記の言葉によってきらりと光ったアキの瞳の輝きなのです。こうして天野アキは、いっとう素敵な朝ドラのヒロインとして世に生み出されたというわけです。おめでとうございます。ありがとうございます。

 仕事っぷりそのさん:人物が自分で行動を決断する様子を自然に見せているのがすごい

 沼田やすひろさんの著作に「『おもしろい』映画と『つまらない』映画の見分け方」というのがあります。この本はすごく面白いし役に立つので皆さん読めば良いのにと思うのですが、それはさておき、この本の中で、「おもしろい」ドラマの中では主人公は二つの種類の試練を乗り越える、という話が出てきます。一つは「成長葛藤」、そしてもう一つは「破滅葛藤」。「成長葛藤」とは「助けと成長のある試練」であり、「破滅葛藤」とは「助けのない、破滅のある試練」です。

 分かりやすい例として「天空の城ラピュタ」が挙げられているのですが、そのまま引用すると、「主人公・パズーはヒロインであるシータおよびドーラ一家の助けによって成長を遂げた後、ひとりで『パルス!』という言葉に象徴される破滅が待つラピュタへと向かいます。」。ものすごくざっくり言うと、「成長葛藤」というのは誰かの助けがある(ときには巻き込まれる形で立ち向かうことになる)試練であり、「破滅葛藤」というのは自らの意志によって選び取りひとりで立ち向かう試練だと解釈しましょう。細かいこと言うと間違ってそうですが大体合ってる。合ってるはず。まあ最悪、合ってなくても話を続けますが。

 で、ここからは大幅に私論も挟んでいきますが、「破滅葛藤」というのは原則として全ての物語に必要とされる展開であり、少なくとも「グッとくる」作品には間違いなく入っています。それは試練の大小という話ではなくて、自分で自分の戦いを選んで引き受ける、そういう場面が必ずあります。それはたとえば、「ロッキー」でロッキー・バルボアがアポロとの試合で15ラウンドまで立ち続けることを決意する場面であり、「トイ・ストーリー」でウッディがバズを連れて帰ると決断する場面であり、「マトリックス」でネオがモーフィアスを救うことを自らの意志で選択する場面であり、「モテキ(映画)」で幸世が恋敵のインタビューページを書き上げる場面であり、ってまあ、挙げるときりがないのですが、ありとあらゆる「グッとくる」作品なら、全てそうです。主人公が自分の戦いを選ぶ場面が、必ずどこかにあります。

 言ってしまえば、全ての物語とは、主人公が自らの戦いを選んで、そこで戦うものであるべきです。べきなの? べきじゃないですね。でもぼく的にはべきです。「破滅葛藤」で最も重要なのは、主人公がそれを選ぶその場面です。そのための分かりやすい道しるべとして、「成長葛藤」は装置として有効に機能します。作品内での予告、あるいは予兆としての役割として、「成長葛藤」は存在するのです、たぶん。そして繰り返しますが、何よりも重要なのは、主人公が自らの戦いを選ぶ場面なのです。

 「あまちゃん」は、第一週目で、見事にそれを成し遂げています。第5話で、主人公のアキは、自ら、誰から要請されることもなく自ら、海へ飛び込みます。彼女はその戦いを自分で選んでいる。ここが本当に大事なところです。文字通り、自ら飛び込んでいる。そこで初めて第3話の、夏によって無理矢理海に飛び込まされた場面は、「成長葛藤」としてアキ自身と視聴者の後押しの機能を果たすことになります。美しい! なんて美しい構成なんでしょう、ちょっとどうかしてる!

 それでまた、宮藤官九郎さんがすごいのは、アキが一人で海に飛び込む場面を、一人よがりな場面にしていない、ここが本当にすごいですよ。朝ドラだからナレーションもある、心の声だって使えるところで、そういった文字での処理を選ばずに、小池徹平さん演じるところのバイトの灯台守、足立ヒロシからの視点を導入している、その巧さたるや! 恥ずかし気もなく恥ずかしい手法を選ばないという、その矜持! ここでもう、ぼくは完全にやられました。この先何が起ころうとも「あまちゃん」は全力で推す!と、そのように誓った次第でございます。こんなに丁寧な仕事を毎朝15分観られるなんて、素晴らしいことこの上ないですよ、本当に。

 というわけで、「あまちゃん」一週目を振り返ってみました。このエントリを読んで、「あまちゃん」を観る人が一人でも増えてくれたら、これに勝る幸せはありません。朝ドラは公式サイトのあらすじとか充実してるので、途中から乗るのも全然ありだと思うので、是非ね。是非にというわけで。この辺りでドロンさせていただきます。長々とご清聴、まことにありがとうございました。