1980年生まれの一市民によるリアルタイム文化史〜黎明編〜

 特に何があったってわけじゃないんだけど、ぼくらは色んなものを与えてもらってきてるんだと思う。たぶんそれらは自分たちで意識しようと意識しまいと、確実に血肉になっていて、結局そこがベースになる。でもぼくらは揃いも揃って忘れやすい生き物だから、そういった自分の人生を変えるほどの体験をも忘れてしまい、たまに大幅に間違えてしまう。だから、1980年9月18日に生まれた自分が、どうやって世界から色んなものを貰ったのか、つまりは自分の親は誰なのかっていうことを、後年の自分たちのために書き残そうと思う。

 史実に間違いがあったら申し訳ないし、たぶん地域的や文化的に同年代であってもかなり違う年表にはなるだろうってことは理解してるけど、これはあくまで主観的な文化体験だ。こういう具合で、ぼくは生きてきた。ってことを、何回かに分けて書き記す。

87年(7歳)
(マンガ)「かっとばせ!キヨハラくん」連載開始、「おぼっちゃまくん」連載中(86年〜)、「つるピカハゲ丸」連載中(85年〜)、「ダッシュ!四駆郎」連載開始、(テレビ)「ビックリマン」放送開始、(ゲーム)「さんまの名探偵」発売

 何で7歳から始めるかに特に理由はないけど、便宜上。ぼくの小学校生活は、コロコロ派かボンボン派かという派閥政治で始まったと言っても過言ではない。いや、過言だ。ほぼ全員コロコロ派だった。ぼくもそうだった。あのドラゴンのマークを当時はそらで描くことができた。wikipediaにも載ってない情報だけど、コロコロの三大理念みたいなものがあって、それは「勇気・友情・闘志」って柱だった。親の都合で小一のころ半年間ベルギーに留学してた自分は、それを知っていたことでだいぶ一目置かれる存在を勝ち得ていた。でも「闘志」って言葉は自分には難しすぎて「透視」のことだと勘違いしていたので、なぜここで透視能力が引き合いに出されるのかは理解できなかった。なんかそういう話をすごくした太った友だちがいたんだけど、冬になって氷が張る日本人学校の池の上に彼がふざけて乗ったら氷が割れて、結構な騒ぎになったことだけは覚えている。

 ミニ四駆は、スーパードラゴンとファイアードラゴンとサンダードラゴンで言えば、サンダードラゴンを選ぶのがなんかクールな感じだった。アバンテがかっこよかった。アルカリよりニッカドの方が早いけど公式ルールでは禁止にされていた。「ビックリマン」は本当に、素晴らしい文化体験だったと今なら思う。大人たちは何のルールも要求しなかった。「ヘッドはレア」ってことだけしか言ってくれなくて、あとは全部こっちが考えてた。あのころ自主性を与えてくれた大人たちには、どれだけ感謝しても感謝したりない。ロッテじゃなくてロッチのやつは、ペラペラだったんですぐに分かった。ロッチ製品が相当数流布してたってこと自体、かなりふざけた時代だったんだなと今なら思える。

 「さんまの名探偵」は、カニカニどこカニが、エロかった。今思い返しても結構なエロ体験だったと思う。「おととい来やがれ」って言葉を慣用句として理解してなかったから、「おとといという過去に来るというのはゲーム上何かそういう仕組みがあるのか?」ってことを考えた。よくよく考えると無茶なゲームだ。これがたぶん、自分にとっての初のゲーム体験かもしれない。

88年(8歳)
(テレビ)「とんねるずのみなさんのおかげです」レギュラー放送開始、(ゲーム)「ドラクエ3」「キャプテン翼」発売、(書籍)「ゲームの達人」発売、(音楽)「パラダイス銀河」リリース、(その他)「ゲームブック」「ロケットペンシル(ロケット鉛筆)」ブーム

 仮面ノリダーっていうのが、すごく面白かった。これはもう、理屈とかじゃない。面白かったってことしかない。ドラクエ3の、ちょっとエロい感じがあるのが、大人と繋がってる気持ちになれて誇らしかった。子どもとして、結構ちゃんと、大人に憧れてた。だから学校行事のバス旅行とかで「ゲームの達人」に代表されるシドニィ・シェルダンの本を読んでるやつには嫉妬心を覚えた。外人の書いた本を読んでるとか、かっこよかった。知らないことを知ってるやつは尊敬できた。「キャプ翼」は、タックルですごい吹っ飛び方をしていて、岬くんとは全然会えなかった。まあ、人生っていうのは大抵そんなもんだ。会いたい人とは死ぬまでちゃんと会えない。間違った形でしか人と会うことはできないんだろう。それをぼくは、ロベルト本郷から学んだ。

 同じようなタイミングで、「ゲームブック」っていうルールが提示されて、これが結構な革命だった。選択肢を選んでページを移動する、っていうのはすごく簡単に真似ができるから、ジャポニカ学習帳のパンダが表紙のやつに、結構な頻度でゲームブックを作成した。武器とかすごい描いてた。草薙の剣を描いたとき、剣に草がまとわりついてるイラストを描いたんだけど、それが稲妻っぽいって言われて本気で憤慨したバスの中での想い出がある。あの同級生とは、もう何年も会ってない。

 光GENJIはこの時代なのか。もっと自分の中では昔のイメージだった。ローラースケートを、親に買ってもらって、それだけでも本当に自分の親には感謝しなきゃいけないよなと思う。全然履いた記憶はないけど。でもたぶん、ちゃんと考えた上で、ローラースケートを買い与えてくれたんだよな、きっと。ロケットペンシルはあり得ないぐらい未来だった。あんなに未来なものと、これから先、出会える自信がない。iPhoneよりもかっこよかった。って、今でも思ってる。

89年(9歳)
宮崎勤逮捕、昭和天皇手塚治虫美空ひばり阿佐田哲也松田優作死去、(テレビ)「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」「DRAGON BALL Z」スタート、「聖闘斗星矢」放送終了、(ゲーム)ゲームボーイ発売、「ファミコンジャンプ」発売(映画)

 色々とすごい人が死んでいる。ぼくは小学校の視聴覚室で、上映ビデオのセッティングをしてる途中のNHKテレビ放送で、手塚治虫の訃報を知った。当時手塚作品にそこまで触れてるわけではなかったから、そのときは何の感慨も覚えなかったけど、思い返すとすごい話だ。手塚治虫と自分の人生が、ちょっとは重なってたって、すごいよな実際。超偉人でしょ。重なってたんでしょ、その人と。それはもう、単純にドキドキしてしまう。とは言えまあ、当時の自分は手塚の凄さを知るよしもない。

 そろそろ、テレビの面白さを知る時期だ。たぶん自分の人生の中で、初めて好きになったのは「やまかつ」だった。いま見返して面白いとは絶対に思わない。でもたぶん、テレビを好きになったきっかけは、たぶん「やまかつ」だった。CDも持ってた。盤面がスイカ柄のやつ。なんかのきっかけで、面白いからって理由で友だちと一緒に家の窓から投げ捨てた記憶がある。「Z」は相当好きだった。テレビ特番があるときに、家のテレビ録画機能が存在してなかったから、ラジカセで音だけ録音してた。信じられるか? テレビの音だけを、録音して、あとで聴いて想像してたんだよ。で、それが当たり前だった。小学生すぎる。俺が親だったら全力で応援しちゃうよ。

 「聖闘斗星矢」は紫龍のフィギュアを持ってた。当時同年代で「聖闘斗星矢」観てた奴らで、紫龍推し以外はわりと認めたくない。今なら氷河なんだ。でも当時なら絶対紫龍だ。この辺の感覚は伝えるのが難しいけど、でもそうなんだから仕方ない。ゲームボーイは、でかかったな。あれはでも本当に画期的だった。

 もうこれ以上は長いんで無理。続きはまた書きます。