憧れながら生きていく

 毎年恒例となっているメロン記念日のクリスマスコンサートへ行き、そして思う。これは確かに恋であり愛であるが、同時にまぎれもなく憧れであると。いまステージの上ではメロン記念日という女性アイドルグループが歌い踊っていて、彼女たちを見つめる自分のまなざし、それはおそらく街頭テレビで力道山を見つめる昭和の人々のまなざしと変わらないだろう。あるいは手塚治虫を見つめる満賀と才野だ。好きだけど、ただそれだけじゃない。メロン記念日っていうものに対しての憧れがある。

 しかしいくら憧れたからと言って、自分がメロン記念日になれるわけではない。モロッコで性転換手術を受け、腕の良い整形外科医に顔をいじってもらい、歌とダンスのトレーニングをいくらつんだとしても、相沢は相沢の憧れるメロン記念日になることはできない。というのも、相沢が憧れるメロン記念日というのは、まさにいま相沢の目の前で歌い踊っているこのメロン記念日なのだから。そのメロン記念日に、相沢は視線としてしか介在していないというのが重要なのだ。相沢がメロン記念日に加入してしまっては、それはもう相沢の憧れたメロン記念日ではない。相沢の憧れていたメロン記念日に相沢を加入させた何か、でしかない。

 つまり、手塚治虫にいくら憧れたからといって、手塚治虫になれるわけではない。手塚治虫の描いたマンガを全て完コピしたとしても、満賀と才野がイコール手塚治虫ということではもちろんなく、手塚治虫の描いたマンガを全て完コピした満賀と才野にしかなることはできない。ここで言っている憧れというのはそういうことであって、だからもっと漠然としている。メロン記念日に憧れるからと言ってそのままメロン記念日に加入したいということではなく、むしろメロン記念日から感じるメロン記念日的なものを手に入れたいとか、あるいは俺の人生をメロン記念日的なものに変えたいというような野望とか熱意とか、誰かに憧れるというのはそういうことなんじゃないかと思う。

 だからメロン記念日に憧れる者はみな、それぞれの記念日を生きなくてはいけない。その必要がある。メロン記念日になるのではなく、相沢記念日になる。それが憧れということだと思う。メロン記念日のコンサートに行っていつも思うのは、もっと自由でいいんだ、俺の人生にまつわることは全て俺が決めていいんだ、というひどく当たり前のことなんだけど、それはメロン記念日を知らなかったらそう簡単に理解できることじゃないように思う。だから色んなことでがんじがらめになってしまっていたり、人生がつまらなく感じてしまっている人はみんなメロン記念日のコンサートに行けば良いのにと本当に思うし、そういう意味でメロン記念日にはありがとうって言いたい。

「ガールズパワー・愛するパワー」を歌ってたら、この歌ってみんな(※筆者注:観客のこと)のことだなって……。

 メロン記念日の村田さんは、自分の曲を歌いながら「この曲はヲタを指している」と思ったらしい。実にありがたいことである。ヲタがメロン記念日に憧れるということ、それはそのままヲタがいま現在メロン記念日でないという悲しい現実を指しているわけだが、だけどこうやってメロン記念日とヲタは絡み合う、かかわり合う。メロン記念日と相沢記念日は別物だがときに混ざり合う。それは正しくそれぞれの記念日を生きるヲタにだけ与えられる、メロン記念日からのご褒美だ。