チャットモンチーのシャングリラが素晴らしすぎる

 まず天に謝っておくが、メロン記念日のベストをまだ入手していません。ごめんなさい。心から謝罪します。本当に申し訳ございません。次からはちゃんとやります。あとあさみさんとみうなさんの件に関しては考えれば考えるほど悲しくなるのでもう考えたくありませんが、それは間違った生き方だと考えます。この件に関しましては、女の子たちはぼくたちの手の遠くにやはりいたのだという事実、それに対して私たちはどう行動すべきなのかという問題、ならびにカントリー娘。の素晴らしい楽曲に対して必要のない悲しみや切なさがまとわりついてしまったという抗いようのない現実、など思うべきことは多いのかもしれませんが、そもそも女の子に対して思うべきことって何だよ?

 思うべきことが本当はないのだとしたら、ぼくたちは思うことをただ思えばいいのであって、だとすればチャットモンチーのシャングリラという楽曲が素晴らしいということを言っておきたい。本当に素晴らしい! こんなに幸薄い感じを体験できる機会ってのはそうはないのではないか。

 胸を張って歩けよ
 前を見て歩けよ
 希望の光なんて
 なくったっていいじゃないか

 これがアジカンであったら、相沢もわざわざウェブスペースを割いてその素晴らしさを強調することはないが、しかし歌っているのが徳島県出身の女の子バンドであるという、いやこれはもう情報でしかなくて申し訳ない、その感じというか、彼女たちがこの歌詞を歌う、それを私たちが聴く、その感じ、その状況がなんというかものすごいものがあって、実際のところ素晴らしいのだ。

 良いものを伝えるというのは難しい。こんな歌詞なんて、しょうもないのかもしれない。事実、この曲を嫁(奇遇にも徳島県出身である)に聞かせたところ「携帯電話でつながってたけどそれが駄目になったみたいな曲やろ?」と言われ、相沢は途方に暮れた。確かにそんな歌詞だが、しかし、それを相沢は素晴らしいと感じたのだった。俺は正しいと思う。少なくとも彼女たちのミュージックビデオをはじめて見て、相沢は震えた。これはヤバイ! キテる! と確かに思ったのだ。

 良いものも、悪いものもそうだが、「〜〜だから良い」「〜〜だから悪い」なんていうのは理由にならない。それらの言説は常に後づけであって、全ての体験の良し悪しは、その瞬間の個人の感情によるものだ。「プロレスなんて八百長でしょ?」と批判する者に対して、「八百長だから感激できるんじゃねえのか!」と抗弁したところで、そもそもその発言者の心を動かすことができるのかどうなのか?

 良いものを伝えるのは難しいというのはそういうことであって、だから同様に悪いものを伝えるのも難しい。全てハナから決まっているのだ。「〜〜だから良いのだ」といくら言っても、そこに感動を見出せない人の心を動かすことはできない。だがそれは絶望などでは決してない。むしろ、人は全ての物事に対して自らの意志で良し悪しを決定できるという意味において、それはとても素晴らしいことだ。私たちは好悪の感情について圧倒的に自由であり、その感情はつまらない事実によって左右されうるものではない。事実よりも、感情が先行する。それはほんとうに、素晴らしいことだと相沢は思う。そんな自由な世界に、私たちは生きているのだ!

 だから、チャットモンチーの歌詞に関して「くだらない」とか「普通の田舎の女の子の歌詞じゃん」とか言う人に、相沢の言葉は届かないだろう。それでも相沢は言いたい。チャットモンチーのシャングリラの歌詞は素晴らしいと! それを彼女たちが歌う、そして私たちがそれを聴く、その体験は素晴らしいものだと確かに言える! だから何だって話だ! だけどそんな「だから何だって話」を世界中の人々に表明できるというその自由さを、その21世紀的自由さを相沢は絶賛しよう! ぼくたちは21世紀に生きている、それは確かなことだ!

 あとチャットモンチーのブログがすげえ泣けるので紹介したい。
 チャットモンチーDIARY
 こんなに女の子すぎるほど女の子な日記はないと思うぜ?