まだどうでも良くはないということ

 どうでも良くなってしまう前に、惰性で生きる用意をしておかなくてはならない。つまりは平常時における「値」を高く設定しておくということだ。きっといずれは、全てがどうでも良くなってしまう。例えば相沢は靴下を衣料品店で買うことはない。全てコンビニでまかす。それは相沢にとっての靴下がどうでも良くなってしまったということであり、これから先、よほどのことがない限り相沢はコンビニで靴下を買い続けるだろう。そして同時刻、地球の裏側で貧しい子供たちがかなわぬ夢を見るだろう。

 今は靴下だけだ。しかしいずれ、きっと全てがどうでも良くなってしまうだろう。大好きなもの、愛したもの、全てどうでも良くなってしまい、惰性でまかなうことになるだろう。それは仕方のないことであるから、その前に自らを鍛えておかなくてはならない。つまり、惰性で生きていても素晴らしい人生になるように備えておくべきだ。でなくては老後に困る。そして老後に困ったからといって老後の自分にはどうすることもできない。まだどうでも良くなっていないうちに、どうでも良くなったときの自分をイメージするべきだ!

 志田未来がテレビ番組で語った「浮気と浮気でない」の境目の定義

マクドナルドに行くのは浮気じゃない
サイゼリアに行くのは浮気

 サイゼリア志田未来さんにとって高級店でありマクドナルドは志田未来さんにとって低級店なのだから、彼女にとってサイゼリアか/マクドナルドかはどうでも良くなっていない。しかし相沢にとってこの二つはもはやどうでも良くなってしまっている事態だ。マクドナルドでもサイゼリアでも浮気は浮気でありそうでなければそうではない。これは恐ろしいことだ! つまり相沢は(少なくともこの点において)志田未来さんよりもずっと大人だということなのだ。これは恐ろしいことだ! 相沢はいつだって誰よりも若いはずだったのに!

 こうして人の周りには、どうでも良いことばかりが増えていく。あるいは日記やブログとは、どうでも良いことをどうでも良いと思わないための装置ではないか? そして「可愛い」とは、どうでも良いはずのことにどうでも良くないことを見つけるという事態ではないか? 全ての文章や経験はあなたにとってどうでも良いことになるだろう。それはとても恐ろしいことだ。