メロン記念日中野サンプラザ

 心から大切な、必要な、愛する何かについて表現することなど出来はしないのだが、何の話かと問われれば言わずもがなメロン記念日についての話だ。中野サンプラザでの公演はまたもや最高であり、相沢はあの二時間弱、正しく狂っていた。観客席を含めたメロン記念日、つまり全体としてのメロン記念日はその日もまた一個の完璧な存在であって非の打ち所もない。全ての人類に薦められる、あれは世に二つという祭りだ。奇祭である。

 もう相沢はメロン記念日にやられちまっていて、だからメロン記念日について何ひとつ語ることができない。何かを語るということは世界をより良くすることと同値だが、もうメロン記念日はそれだけで完全なのだ。だとすればメロン記念日を補完すべき言葉などない。愛するものについて何かを語ろうだなんて、なんて恥知らずなんだろう! メロン記念日、という言葉をキーボードで打つこと自体おこがましい。メロン記念日、とキーボードで打つたびに目眩がする。全身がしびれたようになる。腕が肩より上にあがらない。眼鏡がずり落ちる。

 眼鏡がずり落ちる……。

 斉藤さんは、公衆の面前でみずからの胸をもみしだいた。これは嘘でもなんでもなく、事実として「斉藤という女」はコンサートの最中にみずからの胸をもみしだいたのだ。しかも理由は「セクシー担当だから」という、そんなルールが存在していいのか? 斉藤だったら何をやっても許されるのか? そう、許されるのだろう。およそセクシーに関するあらゆる行為は、斉藤の名のもとに許可されるだろう。斉藤さんがコンサートの最中、突然女性器でゴム風船をふくらませたとしても我々は驚かない。なぜならば、彼女は斉藤さんだからだ。

 メロン記念日を語るのは、本当に難しい。語れば語るほど遠ざかってしまうし、その反対に、何を語ってもメロン記念日を語っているような気分になってしまう。単純に、素晴らしいだけなのに。メロン記念日が素晴らしいってだけで、こんなにも人は馬鹿になってしまう、それがすなわちメロン記念日の偉大さではないだろうか?