権利の反対は義務じゃないんじゃないか論

「相沢くんの日記は、なんだか最近おもしろくないよね」

 例えばこう言われたとしよう。そんなことは直接言われてはいないが、そういったことを感じる局面がないわけではないし、現在の相沢の日記が誰からも愛されていないという可能性は捨てきれない。実際のところ相沢は今、ほんの一部の相沢が喜ぶような日記しか書いていないという自覚とその意図があるのだから、上のようなことを言われた場合を想定しておいて損はないだろう。

「相沢には、お前をおもしろがらせる義務はあるのだろうか?」

 例えばこう答えたとしよう。そこで問題となるのが、果たして義務とは何かということである。こう答えることもできる。

「相沢は別に金をもらって日記を書いているわけではないから、お前をおもしろがらせる必要はない」

 しかし、金をもらったら、おもしろい日記を書く義務など生じるのだろうか? だとすれば、1万円もらったときに書くべき日記と、100円もらったときに書くべき日記には自ずと差ができることになるが、しかしそれを一言で「義務」と言ってしまっていいのだろうか? お金をはらったらその分楽しませてくれることを、客としての我々は当然期待するが、これはあくまでも「権利」だ。その「権利」とまったく同じ分だけの「義務」が、相手方に生じると素直にも想定してしまうということは、あまりにも身勝手すぎないだろうか?

「いや、義務とは一種の心の持ちようなのだから、存在する(生じる)ということではなく、むしろ相手がどう思ったかによるのではないか? 想定のないコミュニケーションなどあり得ない」

 そうだ、その通りなのだ。しかしそれならば、ここに二人の風俗嬢がいるとしよう。一人はソープ嬢であり、金をもらったら最後までサービスをすることが「義務」だと考えている。そしてもう一人はSMクラブのS嬢であり、金をもらったら客をいためつけることが「義務」だと考えている。この二人は二人ともが正しいのに、「義務」としてのあり方はまったく異なっている。

「だから何だ? 個人の内の「義務」としてのあり方が異なるのは当たり前ではないのか」

 当たり前だから、ややっこしいのだ。つまり上の例で明らかになったことは、「権利」と「義務」が一対一関係にはないということなのだ。客としての我々にとっての「権利」と「義務」の関係は、風俗嬢にとっての「権利」と「義務」の関係とは一致しない。一致しようと努力する(=つまり、自分が望むサービスをしてくれそうな店に行こうとする)ことはできるが、しかしそれが果たして一致しているのかどうか、私たちには確認するすべがないのだ。風俗嬢が自身、「金をもらった以上のサービス(義務)を果たした」と満足しているのか、それとも「調子が悪くて金の分のサービス(義務)が果たせなかった」と悔いているのか、それは相手の心をのぞいてみないと分からない。

「だとすれば、「義務」は「権利」とはまったく独立して想定されるべきなのではないか」

 そう、相沢はそう思う。つまり私たちが金を払ったときに生じるものは「権利」でしかなく、相手にその分の「義務」が生じていたとしても、それはあくまでもたまたまのことなのだ。「権利」は私たちが金を払うたびに生じるが、「義務」はむしろ初めからそこにあるものだ。だから私たちは、「義務」を持てと諭すこと、つまり「義務」に関する「義務」を相手に期待することはできても、自らが得た「権利」によって相手の「義務」を要求することはできないだろう。両者は完全に独立に想定されるべきもので、「私に権利があるという根拠においてお前に義務がある」という話などではまったくないのだ。