物語の哲学

 野家啓一「物語の哲学」
 ASIN:4006001398

 かくて、文盲をなくす運動は権力による市民の統制の強化と融合する。

 これは何となしかっこよろしい。全ての「運動」は魅力的だ。
 以後、口承伝承などにおける物語の変化について。

 引用された作品は、そこで新たな意味作用を発現する。その意味作用は作者の本来の「意図」を乗り越え、裏切り、さらには解体するのである。それはテクストとテクストとの思いもかけない遭遇と制御不可能な相互作用によって生み出されるポリフォニックな意味であり……(略)

 物語は常にこれらの操作を介して削除されまた増殖し、「リゾーム状の生成」を続けつつ伝承されて行くのである。

 つまり物語は語られ、聞かれ、そしてまた語られることにより、特に聞き手の反応によって変化する。この点が作者の優位性を常に抱く小説と、物語がもっとも異なる点である。要は物語とはブログであり、小説とはテキストサイトである。

 ブログがブログとしてブログの生き方を生きようと思うのならば、やはり全ての「書かれたもの」はエントリごとで評価されるべきで、作者とは切り離されなければならない。というか、そうじゃないのならばブログでなくていい。だから全てのブロガーは周囲のブログに気を配り、それを変質できると思ったエントリに対してはどんどん首を突っ込んでいくべきだし、トラックバックすべきだし、また自らのエントリが変質されることを拒否してはなるまい。今夜のメニューをただ書き記すブロガーは単なるカタリストであり、それはマワリストやオドリストと同じようなものだから、きっと皆ドブスである。

 それはともかく問題となるのが上記「新たな意味作用」という言葉の「意味」とは一体なんだという点である。一つのエントリが様々な外的作用を受けて「リゾーム状の生成」を続けその連動が意味を生む、だとして、その「意味」を判断するのは一体誰なのか? 「リゾーム状の生成」そのものが「意味」なのだろうか? あるいは一つのエントリは、どこか素敵な場所(結論)へと向かうのか? たとえ読む者が誰一人としていなかったとしても、そのブログには「意味」があるのだろうか?