物語の哲学

 野家啓一「物語の哲学」
 ASIN:4006001398

 人間の経験は、一方では身体的習慣や儀式として伝承され、また他方では「物語」として蓄積され語り伝えられる。

「経験」それ自体を伝えること自体もちろん不可能なのであって、例えば「私は昨日カレーを食べた」と言ったところでその味やカレーの量を正しく伝えることは出来ないのだが、しかしある程度は分かる。少なくとも(彼が嘘をついていないのであれば)彼がカレーを食べたということは分かるし、その事実は伝達可能だ。

 しかしどちらかと言えば伝えたいことはそんなことではなくて、「昨日カレーを食べた」私がどう思ったか、というその一点を伝えようとすれば話は複雑だ。というかそんなことは伝えられるはずがなくて、例えば「紺野さんがどれぐらい可愛いか」というようなことは他人に決して伝えられない。それは結局のところ相手に想像してもらうより他に手はなくて、コミュニケーションの一番面白いところはそこだろう。

 問題になるのが、だとすれば「想像してもらう」あるいは「想像する」うえで私たちは何を手がかりにすれば良いのかというところで、それはつまり相手の経験に全て委ねられる。肉親が死んだらそれなりに哀しいわけで、そこではじめて「昨日息子が死んだ」という相手の表明した事実から「そりゃ哀しいだろうな」という想像が生まれる。

 だけど「肉親が死んだらそれなりに哀しい」という前提自体、本来はきわめて個人的なものだ。全ての人間に対して「肉親が死んだらそれなりに哀しい」という前提が成り立つわけではない。だとすれば何によって私たちは想像するのか? 経験の有無はそれほど関係はないだろう。肉親が死んでも哀しくない者であっても、「(大抵の人間は)肉親が死んだらそれなりに哀しい」ということは了解しているものだし、それによって想像はできる。だとすれば何によって私たちは想像しているのだろうか?

 それぞれの人間が、例えば「理想的な人間」を個人の中に想定していて、それによって想像しているという考え方はどうだろうか? だとしたらその「理想的な人間」は一体いつから、どんなきっかけで私たちの頭の中に根を下ろしたのか?