天てれ

 天てれドラマにて、少女つぐみは「メロン記念日になりたい」と願うあまりルー大柴の発明した機械を盗み、見事柴田あゆみと成り代わることに成功した。が、メロン記念日になれたと喜ぶのもつかの間、弁当が冷えていたりサインをするのが億劫であったりというアイドルとしての辛さを知り、おそらくこの先アイドルとしてもうやってらんない、といった具合で日常へ埋没していくのだろう。構造としては「青い鳥」形式と言って良いと思う。

 問題は「メロン記念日になりたい」という願いそのものに関してである。一体何をもって「メロン記念日になる」という夢の実現が為されるというのか? 少女つぐみは柴田あゆみと成り代わることでメロン記念日となった。だが柴田あゆみをのぞいた三人と誰かによって「メロン記念日である」という事態が為されるのかと問えばそんなはずはない。メロン記念日はあの四人でしかメロン記念日となりえないからメロン記念日なのであって、柴田あゆみがいないユニットは本来すでにメロン記念日ではない。少女つぐみは、まだ幼いためにそのことを理解していないものだと思われる。

 これは「メロン記念日」としてのつぐみの能力が足りないから、ということではない。単純につぐみが柴田あゆみではないから、メロン記念日になりえないという話である。これは「憧れ」に関する問題であって、つぐみではなく、例えば私たちやあるいは中年男性が「メロン記念日になりたい」と願い憧れたとしてもそれは決して叶うことがない。何故ならば、私たちが現状のメロン記念日の誰かになりかわって(あるいは新メンバーとして)メロン記念日に加入した途端、そのユニットはメロン記念日ではないのである。例えよう。主体である「水」が「氷になりたい」と願ってもその夢は叶うことはなく、「氷」になったときすでに「水」は「氷」となっているのだから、単純に「氷になりたいと願った水」と「氷」が時を経て二つ存在したにすぎない。夢自体は叶ったわけではない。ここで主体に意志があるかどうかは全く問題とはならない。

 そうか? いや、ちょっと違う。ここで「叶う」という語彙の範囲が問題となってくるだろう。「水」が「氷になりたい」と願ったという夢を主体である「水」と切り離せば、その夢は叶っている。ただしここで重要なのはその夢が叶った瞬間に「水」は「水」ではなくすでに「氷」となっているのだから、正しく言うならば「氷になりたい、という願い」は叶うかもしれないが、「氷になりたい、という『水の』願い」は決して叶うことがない、となるだろう。その願いが叶った瞬間に「水の願い」は「水の願い」でなくなるという意味においてだ。

 ということは、主体であるつぐみと「メロン記念日になりたい」という夢を切り離せば、つまり「メロン記念日になりたい」という夢を夢そのものとして考えるならば、あるいは「メロン記念日になりたい」という夢に対して「私は」という主語さえ付け加えなければその夢は叶ったと言えるのか? しかしそんなことはあり得ないだろう。主語のない夢など存在しない。さらに言うならば少女つぐみはメロン記念日となった後でも少女つぐみとしての意識を持っているため、少なくとも天てれドラマにおいてつぐみはメロン記念日になどなってはいない。

 この問題は「メロン記念日」という言葉の持つ厳密性に由来する。例えば視点を変えてみて「私は貝になりたい」という願いが叶い得るかどうかということを考えたとき、これはまあ叶い得る。ここで必要なのは「もの思う貝」あるいは「私の意識をそのまま持っているという貝」を「貝」として認識する能力だけであって、そこが明快であれば「私は貝になりたい」という主語つきの願いは叶い得る。が、「メロン記念日」とはそうではない。誰かが現メンバーの誰かと入れ替わった時点でそれはすでに「メロン記念日」として認識されない(少なくとも私にとっては)ため、「私はメロン記念日になりたい」という主語つきの夢は決して、原理上叶うことがないのである。

 そういった意味で「私は死にたい」という夢も原理上叶うことがないから、主体である人間は決して死なない。だからと言って「私は生き続けたい」という夢も叶うわけがないから、生き死にに関する私たちの夢は、少なくとも主語つきの夢であるならば何事も叶わない。いわば主体である私たちから主語が離れる瞬間こそが、死と呼ばれるものである。