松浦さんと後藤さん

 松浦さんと後藤さんについて思索とも呼べぬ思索。思索とも呼べぬこの思索は寝ずに第三のビールとともに書かれているため、思索とも呼べぬ思索であるから、またいつか深く考えたいし深く考える人は続きを考えてほしい思索とも呼べぬ思索である。

 じゃあ言うよ?

 松浦さんはスターであって、後藤さんはスターではない。このスターっていうのは例えば美空ひばりがスターであり、あるいは力道山がスターであるような意味におけるスターである。つまり昭和的スターということであって、例えばプロレスで言うと猪木ではなく馬場である。で、これは真理としていいと思う。「後藤さんは私にとってはスターですよ!」とかってことではなく、要は人としてスター的かスター的でないかという話であるから、これは分類の仕方にすぎず、だから松浦さんが後藤さんよりすごいってことではない。まあ当たり前だけど。

 問題は「松浦さんと後藤さんは何が違うのか」っていうことであって、それは結局、松浦さんもしくは後藤さんに我々が何を求めているのかということだ。そこがたぶん、ハナから違うのだ。松浦さんの特殊性っていうのはそこにあって、たぶんハロプロを知っている人であれば全員が全員「松浦さん」という言葉にちょっとした違和感を覚える。それはつまり、松浦さんに我々が求めているものっていうのが、ちょっとハロプロ的ではないということになるんだと思う。

 じゃあ松浦さんに我々は何を求めているのだろう?(ここでいう我々ってのはハロプロファンって意味じゃなくて、人は、ってことです)という話だが、要は松浦さんに求められてるものっていうのは、普遍性とか、既視感、あるいは安心感。つまり「なんかやっぱり、そうだよね」って思いだ。言い換えれば、松浦さんに求められてるものはつまり、松浦さん自身なのだ。松浦さんは常に松浦さんだし、松浦さんのファンはそんな松浦さんの姿を望んでいるわけで、これは皮肉など一切ぬきで素晴らしい形なんだと思う。

 スター、っていうのは結局のところそういう人種であって、力道山はいつでも外国人を倒すしひばりちゃんはいつでもお嬢だ。スターは普遍性をその身に宿した人間のことであって、だから猪木はスターではない。猪木に普遍性はないから。その代わりに猪木にあるものは「お前はむちゃくちゃだな」っていう、意外性とかそういうものであって、本質的に馬場を見つめる目と猪木を見つめる目は違うものだ。で、それと同じ意味において、松浦さんと後藤さんを見つめる目ってのも違うわけである。

 松浦さんのファンは、松浦さんを求める。でも後藤さんのファンは、別に後藤さんを求めているわけではない。むしろ後藤さんの起こす奇跡を求めているわけで、言い換えれば「後藤さんの中にはそんな後藤さんもいるのか!」という驚きを求めている。たぶんハロプロ的っていうのはそういうことで、ものすごくレトリックな言い方になるのを承知で言えば、ハロプロ的っていうのはハロプロ的でないことなんだろう、きっと。「ハロプロがそんなハロプロでないことをするなんて!」っていう、驚きとか新しさをたぶんハロプロファンは求めているのだ。

 別にこの話に結論なんてない。だけどやっぱり思うのは、俺は別に可愛い女の子が見たくてハロプロを見てるわけではないのだ。もっと、何というか、すげえ!とか、それ新しいやん!っていう、そういう体験を求めてるわけだ。ハロプロがプロレス的っていう例えをされるけどそれはちょっと違っていて、ハロプロっていうのはおそらく猪木プロレスだと言って良いだろう。繰り返すが結論はない。それにハロプロファンはそんな人間ばかりじゃないだろうし、もっと言えば推しメンがやめたらすぐに他に乗りかえることの出来るクレバーな人種が大多数なんだろうなってこともなんとなくは知ってるけど、そんな淋しいことはきっと言わない方が良いだろう?