「社会学を学ぶ」

内田隆三社会学を学ぶ」
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 学ぶという行為は極めて個人的な悩みや切実さから要求される(べきだと思う)ものなのだから、誰かが学んでいるという事態は実は相当にスリリングなものなのではないか。たとえその悩みや切実さが当人にしか分かりえぬものであったとしても。それはきっとWOTAの悩みを非WOTAが理解できないのと同じである。ここまで書いてはみたものの、そんなことはどうでもよかった。

 生の現在性とは「通俗」という言葉で置き換えてもよい。通俗とはさまざまな人間のリアルに照準し、等身大の、ある低い視線を取ることで見えてくるものである。

 ちょっと感動的な言葉だと思ったが、それはさておき「マルクス」の章で語られている「使用価値」「交換価値」に関する話は、自分が無知なせいもありかなりエキサイティングだ。

 商品に一定の交換価値があると見なされるのは、それをつくりだすのに一定の労働時間が費やされているからである。物の交換価値の量は、それをつくりだすのに(実際にかかった時間ではなく)その社会で平均的に見て必要と思われる労働時間の量で定まると考えられる。

「物象化」とは(中略)人と人との社会関係が、物それ自身の自然な属性のように見えてしまうことである。
(中略)
 物象化というメカニズムの核心は、物が「価値対象性」、つまり社会性を帯びて存立することにある。物がそうした社会性を帯びて立ち現われる場所を、われわれは「社会」と呼んでいる。

「社会」がまずあって「社会性」が生まれるのではなく、「社会性」が現れる場所を「社会」と呼ぶという話はなるほどという感じで、たぶん全てにおいてそうなのではないか。「人間性」が現れる者を「人間」と呼び、「アイドル性」が現れる人を「アイドル」と呼ぶのだろう、きっと。こうやって書くと当たり前の話のようだが、どこか意図的に文意を取り違えていなくもないような気がする。
 ところで「使用価値」「交換価値」の話を読んで考えたことというのは他でもない恋愛、あるいは女の子についてのことであり、真の恋愛に関しては「交換価値」という概念は存在しない。例えば、斉藤さんは好きだけど村田さんはもっと好き、というWOTAがいたとして、じゃあ斉藤さん3人と村田さん1人だったらどっちが好きだ、という問いはまったく意味がない。というか気がふれている。斉藤さん3人でなくても、斉藤さんへの好きな気持ち3回分、というものも想定できない。つまり、好き、という思いは量で表すことはできない。
 だが、斉藤さんと村田さんのどちらが好きか、ということはできる。だったら好きという気持ちはどう理解すれば良いのかといえば、つまりそれは棒グラフで表せるものではなく、むしろベン図のような、円に含まれるものなのではないだろうか。この例の場合、村田さんへの好きの方が斉藤さんへの好きよりも大きいため、村田円は斉藤円を包んでいる。そして斉藤円は何倍になったとしても、村田円を飛び出すことは出来ない。例えば、0から1までの有理数の数も0から1までの実数の数もともに無限ではあるが、実数の方が有理数よりも「より大きい」無限である、というような……いや……この例えはうまくないが……。
 いずれにせよ、好きという気持ちは量で測ることはできず、ただ比較によってはじめて優劣が決定するだけだという結論。そして比較によってはじめて優劣が決定するのであれば、「君が世界で一番好き」という言葉は無効であるという結論にも達する。何故ならば好きは比較によってしか決定しないのだから、「君が世界で一番好き」というためには世界の全ての人々と『試して』みなければならないだろう。これは「好き」の敗北だろうか? いやそうではない。というのも「君が世界で一番好き」という発言は事実の確認ではなく、むしろ決意に他ならないからだ。「君が世界で一番好き」とは「(これから先、私が世界のどんな人たちと出会っても、その人たちと比べて)君が世界で一番好き(な私でいる)」という決意なのだから、これは「好き」の敗北どころか、むしろ「好き」の大勝利と言っていいんじゃないかな?