実家

 多感なる二十歳すぎまでの貴重な時間(とき)を過ごした実家へと帰るため、荻窪へと出向く。たった40分の道のりを行けばかけがえのない郷愁に出会える、などといった馬鹿げた妄想が馬鹿げたものであるにしろある程度の説得力を持ってしまうのは、そこに変化があるからだ。相沢の想い出を作った場所が消えていた。「快楽秘密夫人」で人妻の素晴らしさを知り、「スーパー写真塾」のかっこよさにやられた自分を作り出したのは確かにあの本屋だった。主人はこう言った。

「学生服のお客さんには売れないよ」

 相沢は黙って「快楽秘密夫人」を棚に戻し、二ヶ月はその店に近づかなかった。それが店への『罰』だと考えたのである。いまやエロ本を売る本屋を見つけることさえ難しい時代だ。エロスは全てDVDに詰まってしまった。実に馬鹿げたことだ。『めくる』という言葉のいやらしさを平成の子供たちは知らないのだろう。実になげかわしいことだ。本屋が性を売る時代が確かにあった。あの本屋の主人が最後に売ったエロ本は何だったのだろう?

 荻窪という街には良い障害者がいる。何度か引っ越して相沢が勝ち得た教訓とはすなわち、街の良さとはそのまま障害者の人徳が表すものだという真理である。荻窪の障害者はみな内向的であり、おそらくはスーパーロマンチストであり、踏切の音から悲しみの真実を見出してしまうような素敵な障害者だったように思う。次に引っ越した大井町には障害者がまったくいなかった。おそろしいことだ。障害者がいない街に住むということなど信じられないことだった。

 今住んでいる街には障害者らしき人々がいる。彼らは自分の権利を主張するために過剰な行動を繰り返し、ときに奇声をあげ、他人に危害をくわえることさえ厭わない。しかし彼らは障害者なのだろうか? おそらく病気と診断される程ではないのだろう。境界例というやつだ。しかし彼らのように必死で権利を主張する人間が障害者でなくて荻窪のスーパーロマンチストが障害者であるならば、果たして障害とは何だろう? 全ての人間が障害者なのである、といったアンチミステリめいたことを言うつもりはない。しかしその割合は正しいのだろうか? 障害者の割合はこれが妥当なのか? その根拠はどこぞにあるものだろうか?

(例)石原慎太郎がついに発狂する物語。周囲の人間が必死でそれを隠そうと苦心する。コメディ。

 荻窪はやはり良い。「タウンセブン」という語の持つこの圧倒的な魅力を、私はいかにして君に伝えられよう!