動物化するポストモーヲタ

 動物化するポストモーヲタについて考える。「動物化」とはつまりヲタ芸に興じるマワリストたちのことであり「ポストモーヲタ」とはつまりベリヲタのことである。だから「動物化するポストモーヲタ」とは「ヲタ芸に興じるマワリストのベリヲタ」をそのまま表しているわけで、こう書いた以上は既にお分かりのことだろう。彼らを見るたびに殺意を感じる。それが「女の子」たちの望むものではないだろうと頭では理解しながらも、しかしその殺意を捨てきることがどうしてもできない。

 マワリストたちはただ回る。かつて柴ちゃんはライブのMCで「メロンのファンはライブでも自分を表現してくれるから大好き」というような主旨のことを言った。相沢もそう思った。そしてかつては事実そうであった。メロンのヲタははっきりと自分の感情を自分のやり方で表現していたし、その光景は非常にかっこよく映った。相沢が真っ当なメロンヲタになった過程を、そのかっこよさへの衝撃ぬきで語ることはできないように思う。本来完全にかっこ悪い人間が堂々とかっこよくなれてしまう瞬間、という奇跡が確かにあのときZepp東京に存在していたのだった。

 ではマワリストたちはどうか。彼らは踊りで自分を表現しているのではないか。違う。まったくもって違う。自分を表現するに関するイズムをここでメロンにイズムを加えた言葉「メロニズム」として表すならば、「メロニズム」と「マワリズム」は似ているようでいて完全に正反対のイズムである。マワリストたちは自分を表現するために踊っているのではない。そうではなく実に単純に、踊ると気持ちいい、から踊っているわけだ。言ってみればもはや「マワリズム」はイズムですらない。シャブのようなものだ。打てば気持ちいい。だから打つ。そこには何の精神性もない。

 気持ちいいからそうする、というのは動物化という語に関する相沢の認識が誤っていなければ、まったくもって動物化そのものに他ならないだろう。もちろん動物化そのものを否定しようとは思わない。「気持ちいい!」という衝動のみを拠り所にする動物的なあり方、そしてその動物化に関する精神性のなさはそれだけで否定されるものではない。しかしやはり、どうしたって、それで良いのか、という思いはある。そのあり方とは、とどのつまりが、衝動に搾取されているだけではないのか?

 衝動とは「気持ちいい!」という身体のあり方であり、あるいは「かわゆい!」という突発的な意識のやられ方である。その衝動に殉じるのも良いだろう。しかしそれならば極論を言えば、気持ちいい&かわゆい物質が発明されさえすれば、そこに「女の子」自体いなくてもいいのではないか。おそらく爆音はその過程を踏んだのだろう。爆音にわざわざ行ってしまう、という意志における精神性が死んだとき、爆音はイズムなき動物化への道を辿ったのだろう。しつこいようだが否定するわけではない。それはそれで一つの道である。だがそのような精神性の欠如を是としてしまうのであれば、「女の子」自体いなくてもいいし、もっと言ってしまえば「お前」自身もいなくていいのではないか。衝動にやられて快楽に溺れる「お前」がいるのであれば「お前」自身はいなくたってまったく問題はない。

 動物化とは確かにひとつの道だ。そして同時に真実であるようにも思う。気持ち良くて、可愛いと思うことができるのならば、きっと誰だっていいのだ。柴ちゃんよりごっちんの方が可愛いと思ったらその衝動に乗ってごっちんを推せばいいし、あるいは桃子だってしみハムだっていい、本当は誰でもいい、メロンでなくてもいい、ベリーズでも美勇伝でも、言ってみればハロプロ以外のアイドルであっても可愛いという衝動を抱くことが出来るのならば本当は誰だっていいのだろう。それはおそらく単純な話で、単純な話であるがゆえに真っ当な真実であると思う。

 だがそれでも、本当にそれでいいのか、という声が聞こえる。動物化は是であるというのは真実である、確かにそうだろう、しかしそれが真実だとしても、やはり動物化ではなく文学化への道を探りたいのだ。文学化とはつまり、真実を認識し、それを認めつつも、それでも真実ではない「ほんとう」を求めるという精神性だ。真実がそこにあるとしても、その真実に従って生きるかどうか決めるのは人間でなくてはならない。つまらない真実だったら捨てたっていいのだ。そして「動物化」とはそういった、やはりつまらない真実であると思う。

 可愛い女の子を求めるのであれば、柴ちゃん以外にも山ほどいるだろう。ハロプロの中にも外にも。可愛いという衝動をただ求めるのであればメロン記念日である必要はない。まったくない。断じてない。しかしだからこそ、極めて逆説的にも、相沢はメロン記念日を愛することができる。愛とは決断である。衝動などではまるきりない。「可愛い!」という衝動を「愛」という決断で押さえつけたいのだ。それは完全に無価値である。同時に真実でもないだろう。しかしそれがやはり「ほんとう」ではないのかという気がしてならない。

 少なくとも誰かひとりの女の子の生き様にやられてしまった経験があるのならば、そうするのが筋ではないのか。「可愛いから」という理由で推しているわけではない。むしろ「愛してしまった」義理として、相沢はメロン記念日を推す。そして一生推し続ける。ベリーズは推さない。美勇伝も推さない。それはひとえに、メロン記念日への愛が薄れてしまうことへの怖れである。相沢はメロンヲタだ。誰にも文句は言わせない。相沢はメロン記念日を愛してしまった者としての恍惚と不安をただ抱きながら、死ぬまでメロン記念日だけを愛することをここに誓う。

 結局何が言いたかったかというと、相沢が明日握手会に来なかったからといって、ベリーズの皆は悲しむ必要はないのだ。ごめん。嫌いじゃないんだよ。だけどやっぱり、相沢はメロン記念日以外の女の子を愛するわけにはいかないんだ。ごめんよ。本当に、ごめん。俺の愛って、やっぱり小さすぎるのかな…?